三十三間堂 歴史

三十三間堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 04:00 UTC 版)

歴史

この地には元々後白河上皇1127年 - 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。上皇が眠る「法住寺陵」は三十三間堂の東隣にある[1]

上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日1165年1月30日)に完成したという[要出典]。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の建長の大火で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称されている堂であり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。

三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木をに使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。

なお、これより前、後白河上皇の父・鳥羽上皇は平清盛の父の平忠盛の寄進により、鴨東白河に聖観音を祀る得長寿院千体堂(三十三間堂、文治地震で倒壊したとされる)を営んでいる。2人の上皇がいずれも平氏の棟梁の寄進により寺院を造営していることは、平氏隆盛の一因として留意する必要がある。

室町時代室町幕府将軍足利義教の命により、永享5年(1433年)から5年をかけて、本堂や仏像の本格的な修復が行われている。

桃山時代には、豊臣秀吉による方広寺(京の大仏)造営により、三十三間堂や後白河天皇法住寺陵もその境内に含まれ、周囲の築地塀(現・太閤塀)などが整備された。慶長5年(1600年)には豊臣秀頼によって南大門が、翌慶長6年(1601年)には西大門(現・東寺南大門)が建立されている。また、その間に本堂や仏像の修復が行われている。

豊臣家の滅亡後、江戸時代の初期には方広寺ともども三十三間堂は妙法院の管理下に置かれるようになった。現在も三十三間堂は妙法院の飛び地(境外仏堂)となっている。

江戸時代中期に発生した京都史上最悪の大火とされる、天明8年(1788年)の天明の大火では、三十三間堂の立地する洛東地域は、焼亡を免れた。

寛政10年(1798年)の7月1日(旧暦)に隣接する方広寺大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、方広寺の伽藍である大仏殿・大仏(京の大仏)・仁王門・回廊がほぼ全て焼失した。方広寺大仏殿は(東大寺大仏殿の規模を上回り)当時国内最大の木造建築物であり、火災の際の熱や火の粉で三十三間堂も類焼してもおかしくない状況であったが、奇跡的に類焼を免れた。横山華山作の花洛一覧図(木版摺)は、大仏焼失後の文化5年(1808年)に出版された京都の鳥瞰図であるが、巨大な方広寺大仏殿があえて描かれ(理由は諸説あり 大仏を懐かしむ人々の期待に応えたものか)、江戸時代における三十三間堂と方広寺の位置関係が把握しやすい[2]。京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」というわらべ歌はこの時の火災のことを歌っている[3][注釈 1]

2017年平成29年)には、45年にわたった千手観音立像全1,001体の修復が完了した。


注釈

  1. ^ 資料によっては、このわらべ歌の「天火(てんび)」を「兵火(へいび)」とし、「戦さで焼けた」と解説しているものがあるが、そのような史実はなく、誤りである。
  2. ^ 間面記法で梁間は通常二間を前提とするため記載されないが、三十三間堂は三間である。
  3. ^ 柱心間は中央が一番広く3.95m、続いてその左右の柱間が3.65m、残りの32の柱間は3.30m。
  4. ^ 像高は久野健編『図説仏像巡礼事典』によれば165.0 - 168.5センチ、『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記編 総目録』によれば163.7 - 168.5センチ

出典

  1. ^ 後白河天皇 法住寺陵. 宮内庁、2018年11月16日閲覧。
  2. ^ 花洛一覧図:高解像度版
  3. ^ 音声資料:「京の大仏さん」わらべ歌(京都・鬼遊び)
  4. ^ 拝観のご案内(三十三間堂)および全入場者に渡されるパンフレット『国宝三十三間堂』にある境内図(2022年11月)
  5. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』69(朝日新聞社、1998)、p.7 - 259 - 7 - 260(筆者は平井俊行)
  6. ^ 入江康平 (2007). “競技場としての堂射施設に関する研究”. 武道学研究 40 (2): 37-50. 
  7. ^ 観光スポット・サービス情報 三十三間堂の通し矢”. 京都観光ナビ. 2020年3月21日閲覧。
  8. ^ 「千手観音、1,001体が26年ぶり勢ぞろい 三十三間堂」朝日新聞DIGITAL(2018年10月4日)2018年10月21日閲覧。
  9. ^ 美術院と歩んだ半世紀
  10. ^ 1001体の観音さま、45年の修理終了 三十三間堂 朝日新聞 2017年12月22日
  11. ^ 「風神・雷神像が80年ぶり席替え」産経新聞』朝刊2018年8月1日(社会面)2018年8月6日閲覧。
  12. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』69(朝日新聞社、1998)、p.7 - 262 - 7 - 264(筆者は根立研介)
  13. ^ 平成30 年10 月31日文部科学省告示第204号
  14. ^ 『国宝三十三間堂』、p.38
  15. ^ 『国宝三十三間堂』、p.33
  16. ^ 『国宝三十三間堂』、pp.33, 38 - 40
  17. ^ 『国宝三十三間堂』、pp.38 - 40
  18. ^ 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記編 総目録』(参照:[1]
  19. ^ 倉田文作「像内納入品」『日本の美術』86、至文堂、1973、pp.76 - 77
  20. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』69(朝日新聞社、1998)、p.7 - 274 - 7 - 275(筆者は川瀬由照)
  21. ^ (田中、2019)、pp.177 - 180
  22. ^ 全入場者に渡されるパンフレット『国宝三十三間堂』にある「国宝観音二十八部衆像」(2022年11月)および各像の説明看板
  23. ^ (田中、2019)、pp.134 - 138, 174 - 176
  24. ^ 伊東史朗「八部衆・二十八部衆」『日本の美術』379、至文堂、1997
  25. ^ (田中、2019)、pp.174 - 180
  26. ^ (田中、2019)、pp.133, 180 - 185
  27. ^ 像名と特色は(田中、2019)、pp.138 - 186による。像容については伊東史朗「八部衆・二十八部衆」による。
  28. ^ a b 三十三間堂内の解説看板より。






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