マリオン・G・デーンホフ
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マリオン・ヘッダ・イルゼ・グレーフィン・フォン・デーンホフ Marion Hedda Ilse Gräfin von Dönhoff | |
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マリオン・グレーフィン・デーンホフ(1971年10月17日、写真:連邦公文書館所蔵) | |
生誕 | 1909年12月2日 プロイセン王国、フリードリヒシュタイン城 |
死没 | 2002年3月11日(92歳没) ドイツ、クロットルフ城 (ラインラント=プファルツ州フリーゼンハーゲン) |
国籍 | ドイツ |
別名 | マリオン・グレーフィン・デーンホフ マリオン・フォン・デーンホフ |
教育 | 博士 |
出身校 | フランクフルト大学 バーゼル大学 |
職業 | 著作家、ジャーナリスト |
活動期間 | 1946年 - 2002年 |
雇用者 | 『ディー・ツァイト』新聞社 |
代表作 | 『喪われた栄光 ― プロシアの悲劇』 |
肩書き | 政治問題担当、編集長、経営責任者 |
親 | アウグスト・フォン・デーンホフ伯 |
親戚 | ハインリヒ・グラーフ・フォン・レーンホフ=シュタインオルト - 義兄 フリードリヒ・デーンホフ - 又甥 |
受賞 | ドイツ書籍協会平和賞 4つの自由賞 (言論・表現の自由) ハインリヒ・ハイネ賞 ハンブルク市名誉市民ほか |
背景
デーンホフ伯爵家
マリオン・G・デーンホフは1909年12月2日、東プロイセンのケーニヒスベルク(現ロシア連邦・カリーニングラード)から約20キロのところにあるフリードリヒシュタイン城を中心とする所領を有する貴族の家系に生まれた。デーンホフ家はドーン家、レーンドルフ家と並ぶ東プロイセンの地主貴族(ユンカー)であり、始祖は、ヴェストファーレンの古貴族であったことが確認されている[1]。父アウグスト・フォン・デーンホフ伯 (1845–1920) はプロイセン貴族院の世襲議員。母マリーア・フォン・レーペル (1869-1940) はフリードリヒ3世 (ドイツ皇帝) の妃ヴィクトリアに仕える女官であり、マリオンは8人兄弟姉妹の末子である[2][3][4]。父アウグストはデーンホフ家の本拠であるフリードリヒシュタイン所領6,681ヘクタールを世襲財産(フィデイコミス)として相続した。デーンホフ家が1666年から所有していたフリードリヒシュタイン城は王の部屋を備えたロココ建築の壮麗な城館であったが[4]、これは、もともと、フリードリヒ大王が東プロイセン視察旅行用の宿営所として使用したためであり、地主貴族の「領主館」ではなく「城館」と呼ばれたのもこのためである[1]。だが、第一次大戦後のインフレーションで経営が逼迫した。戦地から帰還した長男ハインリヒは、ボルヒャースドルフとオッテンハーゲンの2つの農場(2,500ヘクタール)を売却し、経営を維持した。第二次大戦でハインリヒが徴兵され、1942年11月に戦死すると、次男ディーターがフリードリヒシュタイン所領を受け継ぎ、ソ連軍の進撃が迫るなか、なおも国防軍指定農場の経営者として、農林業の生産性の維持に努めた[1]。
反ナチ運動 - 7月20日事件
マリオンは、兄ハインリヒの結婚後、しばらくの間、プロイシッシュ・ホランド郡の所領を管理していたが、ハインリヒが徴兵されたときにフリードリヒシタインに戻っていた。次兄ディーターはレーンドルフ家のカーリーンと結婚したが、カーリーンの兄ハインリヒ(ハインリヒ・グラーフ・フォン・レーンホフ=シュタインオルトは、レーンドルフ伯爵家の本拠シュタインオルト(現ポーランドのシュティノルト)所領を1936年に相続した同所領最後の所有者である。1944年7月20日にクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が敢行したヒトラー暗殺計画(7月20日事件、ヴァルキューレ作戦)の舞台の一つ、マウアーヴァルト陸軍総司令部(現ポーランドのマメルキ)はシュタインオルト所領内にあり、ハインリヒはこの暗殺計画に加担し、同年9月4日にプレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処された。また、マリオンが個人的に協力を求めたドーナ家のハイリンリヒ(ハインリヒ・グラーフ・ツー・ドーナ=シュロビッテン)もまた、プレッツェンゼー刑務所で処刑された。さらに、1926年から1933年までデーンホフ家の森林管理人を務めたクルト・フォン・プレッテンベルク男爵は暗殺計画の準備に関わったために翌45年にゲシュタポに逮捕され、自白して仲間を危険にさらす代わりに投身自殺した[5]。マリオン・デーンホフは、フォン・プレッテンベルクが彼女の思考や判断に大きな影響を与えたと語っている[6]。シュタウフェンベルクを中心とするこうした有力貴族の反ナチ運動において、マリオン・デーンホフは主に連絡係を担当し、重要文書の伝達のために東プロイセンとベルリンの間を行き来した。シュタウフェンベルクらの処刑後、仲間が次々と逮捕・処刑され、彼女もゲシュタポに逮捕された。前年から彼女の活動に疑いを持ったナチス党の叔父が、郵便局に彼女が発送する郵便物の宛先を書き留めておくよう頼んでいたからである。だが、彼女は、厳しい尋問を受けた後に釈放された[7][2]。
学業
デーンホフの反ナチ運動は、これ以前の学生時代から始まっていた。1932年にフランクフルト大学(現ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン)に入学し経済学を専攻。共産主義グループと活動を共にした彼女は「赤い伯爵令嬢」と呼ばれていた。後に「私は共産主義者よりはリベラルだけれど、あの頃、本気でナチズム打倒を目指していたのは共産主義者だけだった」と回想している[8]。1933年にヒトラー内閣が成立するとスイスに移り住み、バーゼル大学に編入。ここでも抵抗運動に参加した。博士論文の指導教官で経済学者のエドガー・ザリーンはユダヤ人であった[8]。博士論文はマルクス主義哲学について書こうとしていたが、ザリーンにデーンホフ家の歴史について書くよう勧められた。「東ドイツ大所領の創設と管理 ― フリードリヒシュタインの財産:ドイツ騎士団の時代から農奴解放まで」と題するこの論文は東欧経済史における重要な研究とされている[4]。
- ^ a b c 加藤房雄「ドイツ農村社会の苦闘と終焉 ― 東プロイセンの世襲財産所領の事例に即して」『廣島大學經濟論叢』第38巻第2号、広島大学経済学会、2014年11月28日、 47-63頁。
- ^ a b “Marion Countess Dönhoff” (英語). The Telegraph. (2002年3月14日). ISSN 0307-1235 2019年7月2日閲覧。
- ^ a b c “Livre “Une enfance en Prusse-orientale. 1909-1945”” (フランス語). www.noblesseetroyautes.com. Noblesse & Royautés (2019年1月14日). 2019年7月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “Dönhoff, Marion, Countess (b. 1909)” (英語). www.encyclopedia.com. Encyclopedia.com. 2019年7月2日閲覧。
- ^ “KURT FREIHERR VON PLETTENBERG (31. Januar 1891 - 10. März 1945)” (ドイツ語). www.gdw-berlin.de. Gedenkstätte Deutscher Widerstand. 2019年7月2日閲覧。
- ^ “Preussen.de - Zur Erinnerung an Kurt Freiherr von Plettenberg (1891-1945)” (ドイツ語). www.schlosscaputh.de. Haus Hohenzollern. 2019年7月2日閲覧。
- ^ a b c d e f Connolly, Kate; Pick, Hella (2002年3月13日). “Marion Dönhoff, Distinguished journalist who epitomised the enlightened spirit of Germany” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077 2019年7月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Odile Benyahia-Kouider (1995年3月18日). “Marion Dönhoff. L'épopée de la comtesse démocrate” (フランス語). Libération.fr. 2019年7月2日閲覧。
- ^ Griehl, Viola. “Cornelia Funke und Alexander Gerst erhalten Ehrensenatorwürde der Universität Hamburg” (ドイツ語). www.uni-hamburg.de. Universität Hamburg. 2019年7月2日閲覧。
- ^ “Prof. Dr. Marion Hedda Ilse Gräfin Dönhoff (1909-2002)” (ドイツ語). hamburg.de. 2019年7月2日閲覧。
- ^ 国際情勢資料特集. 東京: 内閣情報調査室. (1966-11)
- 1 マリオン・G・デーンホフとは
- 2 マリオン・G・デーンホフの概要
- 3 赤軍の東プロイセン侵攻
- 4 受賞・栄誉
- 5 参考資料
- 6 関連項目
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