マリオン・G・デーンホフ 赤軍の東プロイセン侵攻

マリオン・G・デーンホフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/31 17:30 UTC 版)

赤軍の東プロイセン侵攻

失われたフリードリヒシュタイン城 (1927年)

この後、オックスフォード大学で6か月間学び、所領の管理のために東プロイセンに戻ったのは1938年のことである。1944年のヒトラー暗殺計画に失敗した後、1945年1月にソ連赤軍が東プロイセンに侵攻(東プロイセン攻勢)。デーンホフはフリードリヒシュタイン城と土地を棄て、馬に乗って一人、西側への逃亡を開始した。凍てつく寒さのなか、2千キロを6週間かけて走り続け、ハンブルクにたどり着いた。1962年に出版され多くの言語に翻訳された『もう誰も口にしない名前』(邦題『喪われた栄光 ― プロシアの悲劇』)には、住民が慌ただしく住み慣れた土地を引き払う様子が、その後の苦難とともに描かれている。この後、ソ連・ポーランドに併合されて失った祖国に対する愛を、デーンホフは、「おそらく、最大の愛は、所有することなく愛すること」と表現し[7]、50年後にもなお、「私の祖国は東プロイセン。なぜなら、失われた風景、自然、動物たちが恋しいから」と語っている[3]

『ディー・ツァイト』紙

創刊

1946年、ハンブルクで社会民主主義のドイツ知識人による週刊新聞『ディー・ツァイト』が創刊された。デーンホフはこの立ち上げから参加している。きっかけは英国軍占領地帯の司令官に送った2本の記事(ナチスの国家社会主義に関する記事、ドイツ民主主義国家建設のために講じるべき手段について論じた記事)であった[8]

「カール・シュミットが辞めるか、私が辞めるかしかない」

以後、デーンホフは92歳で亡くなるまで『ディー・ツァイト』紙に身を捧げることになるが、1年ほど『ディー・ツァイト』を離れ、ロンドンに本拠を置く『オブザーバー』紙に寄稿していた時期がある。『ディー・ツァイト』紙が、ワイマール政権からナチス政権にかけてそのイデオロギーを支えた法学者カール・シュミットの記事を掲載した1954年のことである。デーンホフは「シュミットが辞めるか、私が辞めるかしかない」と妥協を許さない態度を示したが、経営責任者3人のうち2人の決定によりシュミットの記事は掲載された。彼女は後に、「最悪の場合、編集部がシュミットと話し合いの場をもつことは認めたが、彼に記事を書かせるわけにはいかなかった。私が第三帝国(ナチス・ドイツ政権)下で、「ハイル・ヒトラー」と言わない(ナチス式敬礼をしない)というような最低限の原則を守り通したのと同じだ」と語っている[8]。翌55年、戦時中に反ナチズムにより英国に亡命していた政治家(ドイツキリスト教民主同盟)のゲルト・ブツェリウスドイツ語版が経営責任者に就任したときにデーンホフは『ディー・ツァイト』紙に戻り[4]、同年、政治担当編集委員、1968年に編集長に就任した。

東西の和解

特権階級に生まれ育ったことで祖国や人間の尊厳自由の感覚が育まれたという彼女がジャーナリズムの道を選んだのは、こうした基本的な権利を奪われた南アフリカ、中東東欧の人々について書きたいという気持ちからであり、同時にまた、「(恥ずべきナチス・ドイツではなく)まともなドイツを築くこと、良質な新聞を作ること」を個人的な信条としていた彼女は、『ディー・ツァイト』紙上で「ドイツが国際的な信頼を回復するためには、国家および他国との関係を根本的に構築し直さなければならない」と訴え続けた[7]

彼女は政党から独立した立場を貫いたが、思想的にはドイツ社会民主党に近かった。コンラート・アデナウアー首相が1955年に提唱したハルシュタイン原則に示されるように、東側諸国との和解など到底考えられなかった時代に、彼女はこれを断固として主張した人物、特に1952年3月にアデナウアーがスターリンからの「ドイツを再統一し、中立化する」との提案を一蹴したとき、この判断は間違っていると主張した数少ない人物の一人であった[4]。また、1959年に掲載された「民衆をもてあそぶな」と題する記事では、政権延命のためにルートヴィヒ・エアハルトをほとんど実権のない連邦大統領に据えようとしたアデナウアーを批判し、辞任を求めた。東西ドイツの和解を熱心に支持していたデーンホフにとって、アデナウアーは「反プロイセン意識が強く」、「ベルリンが再びドイツの首都になることなど決してない」と考える「権威主義者」であった[8]

ディー・ツァイト社

1969年に首相に就任したヴィリー・ブラントが東側諸国との関係正常化を目指した東方外交を打ち出したとき、デーンホフはこれを全面的に支持した。彼女は『ディー・ツァイト』が東側諸国について大々的に取り上げることを約束し、自らポーランド問題を専門に調査・執筆した[4]。デーンホフはオーデル・ナイセ線1945年ポツダム会談により暫定的に設定されたドイツ・ポーランドの国境線)は廃止すべきであると主張し続け、1970年に、ブラント首相から、オーデル・ナイセ線をドイツ・ポーランドの国境として確認するワルシャワ条約調印式への参加を求められたが断った。「二度と戦争を起こさないためにはやむを得ないこと」と考える一方で、まだこの現実を受け入れることができなかったからである。ブラントはこの代わりに、彼女の求めに応じて『ディー・ツァイト』に「プロイセンの墓に捧げる十字架」と題する記事を発表した[8]

1971年、冷戦期の東西和解に関する著作物によりドイツ書籍協会平和賞を受けた。ジャーナリストのヘラ・ピック英語版は、「ドイツはマリオン・デーンホフから計り知れない恩恵を受けている。彼女はドイツの心をとらえ、報道界において女性が高い地位を占めるのがまだ極めてまれであった時代にガラスの天井を打ち破った女性であり、それだけに一層彼女の業績は輝かしい」と評している[7]。1972年に経営責任者に就任。新編集長には『ドイツの将来 ― その文化と政治経済』の共著者テオ・ゾンマードイツ語版が就任した。翌73年には元連邦首相ヘルムート・シュミットが共同経営責任者として参加した。デーンホフは2002年に92歳で亡くなるまで経営責任者を務めた。

彼女はほぼ50年にわたって『ディー・ツァイト』に記事を発表し続け、少なくとも週に一度は非常に詳しい情報を提供する長い記事を書き、ほとんど働き詰めであった。一方で、著書を発表し、取材に奔走し、戦後の主要な立役者と会談し、また、社会活動、環境保全活動にも取り組んでいた[7]

晩年・死去

戦時中、フリードリヒシュタイン城に保管された後、行方不明になり、デーンホフによって復元されたカント像。

1988年、ケーニヒスベルク(ロシア連邦カリーニングラード州)を再訪した。プロイセン王国の哲学者でケーニヒスベルク大学の哲学教授であったイマヌエル・カントの銅像を同大学構内に建てるためである。ドイツ古典主義の彫刻家クリスチャン・ダニエル・ラウホドイツ語版が制作した原作品は爆撃に備えてフリードリヒシュタイン城に移動し、ソ連軍の攻撃の直前に地中に埋められたのだが、戦後、行方不明になっていた。石膏模型が残っていたため、デーンホフはハラルト・ハーケドイツ語版に復元を依頼したのである[8]

同年にはまた、『東プロイセンで過ごした子ども時代』を発表し、英語フランス語ほか数か国語に翻訳された。回想録であり、歴史政治に直接言及するものではないが、「ナチズム、戦争、他民族に対する憎しみによってドイツのみならず西欧文明が被った計り知れない損失」、「永遠に失われた東欧」を知らしめるものと評価された[3][4]

翌89年には又甥で作家のフリードリヒ・デーンホフドイツ語版とともに旧東プロイセンの所領を訪れたが、「もう何も、まったく何も残っていなかった。瓦礫一つすら残っていなかった」[4]。フリードリヒは彼女の没後に彼女の40年間の写真や文章を編集し、『旅の心象』と題して出版した。

デーンホフのプロフィールのある10ユーロ硬貨 (2009年)

1999年、彼女が90歳を迎えたとき、ポーランド人とドイツ人が共に彼女の誕生日を祝い、オーデル・ナイセ線を越えるという象徴的な行為により彼女の長年の夢を叶えた[7]

2002年に92歳で死去。慎み深く厳格で、結婚することも子どもをもつこともなく、自らの政治的信条と『ディー・ツァイト』に身を捧げた女性として記憶されることになった[8]

1998年、彫刻家マンフレート・ジーレ=ヴィッセルドイツ語版がデーンホフの頭像を制作した。生誕100年の2009年にはデーンホフのプロフィールのある10ユーロ硬貨が発売された。ハンブルクのブランケネセ地区にあるヴィルヘーデン・ギムナジウムは2009年にマリオン・デーンホフ・ギムナジウムドイツ語版に改名された。ドイツ書籍協会平和賞のほか、多くの賞を受賞している(以下参照)。


  1. ^ a b c 加藤房雄「ドイツ農村社会の苦闘と終焉 ― 東プロイセンの世襲財産所領の事例に即して」『廣島大學經濟論叢』第38巻第2号、広島大学経済学会、2014年11月28日、 47-63頁。
  2. ^ a b “Marion Countess Dönhoff” (英語). The Telegraph. (2002年3月14日). ISSN 0307-1235. https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/1387647/Marion-Countess-Donhoff.html 2019年7月2日閲覧。 
  3. ^ a b c Livre “Une enfance en Prusse-orientale. 1909-1945”” (フランス語). www.noblesseetroyautes.com. Noblesse & Royautés (2019年1月14日). 2019年7月2日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h Dönhoff, Marion, Countess (b. 1909)” (英語). www.encyclopedia.com. Encyclopedia.com. 2019年7月2日閲覧。
  5. ^ KURT FREIHERR VON PLETTENBERG (31. Januar 1891 - 10. März 1945)” (ドイツ語). www.gdw-berlin.de. Gedenkstätte Deutscher Widerstand. 2019年7月2日閲覧。
  6. ^ Preussen.de - Zur Erinnerung an Kurt Freiherr von Plettenberg (1891-1945)” (ドイツ語). www.schlosscaputh.de. Haus Hohenzollern. 2019年7月2日閲覧。
  7. ^ a b c d e f Connolly, Kate; Pick, Hella (2002年3月13日). “Marion Dönhoff, Distinguished journalist who epitomised the enlightened spirit of Germany” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077. https://www.theguardian.com/news/2002/mar/13/guardianobituaries.hellapick 2019年7月2日閲覧。 
  8. ^ a b c d e f g h Odile Benyahia-Kouider (1995年3月18日). “Marion Dönhoff. L'épopée de la comtesse démocrate” (フランス語). Libération.fr. 2019年7月2日閲覧。
  9. ^ Griehl, Viola. “Cornelia Funke und Alexander Gerst erhalten Ehrensenatorwürde der Universität Hamburg” (ドイツ語). www.uni-hamburg.de. Universität Hamburg. 2019年7月2日閲覧。
  10. ^ Prof. Dr. Marion Hedda Ilse Gräfin Dönhoff (1909-2002)” (ドイツ語). hamburg.de. 2019年7月2日閲覧。
  11. ^ 国際情勢資料特集. 東京: 内閣情報調査室. (1966-11). https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000543060-00 


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