マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボーン=ドス・シシリアス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/14 15:05 UTC 版)
マリア・デ・ラス・メルセデス María de las Mercedes | |
---|---|
ブルボン=シチリア家 | |
全名 |
一覧参照
|
称号 |
バルセロナ伯爵夫人 スペイン王妃(追尊) |
出生 |
1910年12月23日 スペイン王国、マドリード |
死去 |
2000年1月2日(89歳没) スペイン、ランサローテ島、ラ・マレタ御用邸 |
埋葬 | スペイン、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル、エル・エスコリアル修道院 |
配偶者 | フアン |
子女 |
一覧参照
|
父親 | カルロ・タンクレーディ |
母親 | ルイーズ |
宗教 | キリスト教カトリック |
イタリア語名はマリーア・メルチェデス・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(Maria Mercedes di Borbone-Due Sicilie)。
生涯
生い立ち
両シチリア王国の旧王家ブルボン=シチリア家出身(最後の国王フランチェスコ2世の甥)でスペイン王子(インファンテ)でもあったカルロ・タンクレーディと、その2度目の妻ルイーズ・ドルレアン(パリ伯フィリップの娘)の次女として、マドリードで生まれた。
父の先妻はスペイン王アルフォンソ12世の第1王女で同名のマリア・デ・ラス・メルセデスである。父カルロはこの結婚に際して、両シチリア王国の継承権を放棄し、スペイン王子の称号を得た。またアルフォンソ12世の最初の王妃も同名のマリア・デ・ラス・メルセデスであり、親類に縁のある命名であった。全名は、マリア・デ・ラス・メルセデス・クリスティーナ・ヘナラ・イサベル・ルイサ・カロリーナ・ビクトリア・デ・トードス・ロス・サントス(María de las Mercedes Cristina Genara Isabel Luisa Carolina Victoria de Todos los Santos)。
父が軍務に就いていたセビリアで育ち、スペイン第二共和政が成立すると、一家はフランスのカンヌへ亡命、後にパリへ転居した。
結婚、息子の即位
1935年1月、アルフォンソ13世の王女ベアトリスの結婚式の際、ベアトリスの弟であるフアンと出会い、同年10月に結婚した。1942年にフアンにはバルセロナ伯位が授けられた。
一家はカンヌとローマに暮らし、第二次世界大戦が勃発すると、フアンの母である王妃ビクトリア・エウヘニア(エナ)とスイスのローザンヌに暮らした。戦後、一家はポルトガルのエストリルで暮らした。1976年、フアン・カルロスのスペイン王即位に伴い、一家はスペインへ帰国した。
1982年に臀部を骨折、1985年には左大腿骨を骨折し、晩年は車椅子での生活を余儀なくされた。
マリアはアンダルシア文化と闘牛をこよなく愛した。孫娘である王女エレナが挙式をセビリアで挙げたのは、マリアがセビリアを好んだからであった。セビリアを本拠地とするレアル・ベティスのサポーターでもあった。
2000年1月2日、スペイン王室揃って新年を祝ったランサローテ島の別荘で、心臓発作のため薨去。葬儀は王妃の礼をもって執り行われ、エル・エスコリアル修道院に埋葬された。
子女
2人には4子が生まれた。
- ピラール(1936年 - 2020年) - バダホス女公
- フアン・カルロス1世(1938年 - ) - スペイン国王(在位:1975年 - 2014年)
- マルガリータ(1939年 - ) - エルナニ女公
- アルフォンソ(1941年 - 1956年)
- 1 マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボーン=ドス・シシリアスとは
- 2 マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボーン=ドス・シシリアスの概要
- 3 系譜
固有名詞の分類
ブルボン=シチリア家 |
マリー・アメリー・ド・ブルボン ルイサ・カルロッタ・デ・ボルボーン=ドス・シシリアス マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボーン=ドス・シシリアス フランチェスコ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ マリア・インマクラータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン |
スペイン王族の妃 |
マリア・テレザ・デ・ブラガンサ マリア・アナ・ヴィトリア・デ・ブラガンサ マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボーン=ドス・シシリアス マリア・マヌエラ・デ・ポルトゥガル ベアトリス・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ |
- マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボーン=ドス・シシリアスのページへのリンク