テネシー・タイタンズ 歴史

テネシー・タイタンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 07:05 UTC 版)

歴史

1960年代から1970年代

RBのビリー・キャノン

1960年、AFL(アメリカン・フットボール・リーグ)の1チーム、ヒューストン・オイラーズとしてテキサス州ヒューストンに本拠地に創設された。オーナーはヒューストンの石油王だったバド・アダムス。チームはハイズマン賞受賞者でオールアメリカンのランニングバック、ビリー・キャノンをNFLとの争いで獲得していた。クォーターバックのジョージ・ブランダ、フランカーのチャーリー・ヘニガン、ランニングバックのチャーリー・トーラー、ガードのボブ・タラミニとオフェンスにはタレントがそろっていた。AFLチャンピオンシップゲームに1960年から1962年と3年連続出場し、最初の2回はロサンゼルス・チャージャーズ(現サンディエゴ・チャージャーズ)を破り優勝、1962年はダブルオーバータイムの末ダラス・テキサンズ(現カンザスシティ・チーフス)に敗れた。1961年11月19日のニューヨーク・タイタンズ戦でジョージ・ブランダがNFL、AFLを合わせたリーグ記録となる7TDパスをあげた[1]

1962年、AFLのチームとして初めてNFLに所属していた選手を獲得、シカゴ・ベアーズのワイドレシーバーだった Willard Dewveall はサンディエゴ・チャージャーズ戦でジャッキー・リー英語版からプロフットボール記録となる99ヤードのタッチダウンレシーブを達成している。1968年にはプロフットボールチームとして初のドーム球場アストロドーム)を本拠地とするチームとなった。

1963年12月22日のオークランド・レイダース戦の第2Qにジョージ・ブランダが2TDパス、FBのチャーリー・トラールが1TDラン、一方、レイダースQBのトム・フローレスに4TDパスを許した。両軍合わせて49得点はNFL、AFLを合わせた1Qの記録となっている[2]。翌1964年1月1日のバッファロー・ビルズ戦ではブランダが1試合パス試投68回の記録を作った。この記録は1994年ドリュー・ブレッドソーが1試合70回のパス試投をするまで30年間破られなかった[3]

1967年、AFLの東地区優勝を果たした。1968年、アストロドームを本拠地としたが、プロフットボールのチームとしてドーム球場を本拠地としたのは、オイラーズが初めてであった。

1969年、6勝6敗1分でプレーオフに進出したが、オークランド・レイダースに7-56で敗れた。

AFLがNFLに吸収合併されてから数年間はオイラーズはAFC中地区で低迷した。1970年は、3勝10敗1分、1971年は、4勝9敗1分に終わり、1972年1973年は2年連続で1勝13敗に終わった。1973年シーズン途中からヘッドコーチを務めていたシド・ギルマンは、1974年に7勝7敗で終わった後、退団した。

1975年、バム・フィリップスが新ヘッドコーチとなり、エルビン・ベゼア、ビリー・ホワイト・シューズ・ジョンソンが加入、1970年代に入り初めて勝ち越してシーズンを終えた。

1976年、5勝9敗に終わったが、1977年、8勝6敗と勝率をあげた。

1978年、この年入団したアール・キャンベルは11月20日のマイアミ・ドルフィンズ戦で199ヤードを走り、4TDをあげるなど、マンデーナイトフットボール2試合で288ヤードを走り7TDをあげるなど[4]、この年リーディングラッシャーとなり[5]ルーキー・オブ・ザ・イヤー及びシーズンMVPに選ばれる活躍で[6]、チームはNFLに加入後初のプレーオフに進出した。キャンベルは3年連続でリーディングラッシャーとなり[5]、チームは1978年から1980年まで3年連続プレーオフに進出したが、その内2回はAFCチャンピオンシップゲームで当時全盛期だったピッツバーグ・スティーラーズに敗れスーパーボウル出場はならなかった。

1978年、キャンベルはレギュラーシーズンに1,450ヤードを走り、チームは11勝5敗でプレーオフに出場した。プレーオフ初戦でデンバー・ブロンコスを破ったが、この試合でキャンベルが負傷、サンディエゴ・チャージャーズ戦でバーノン・ペリーが4インターセプト、相手FGをブロックする大活躍を見せて、勝利した。AFCチャンピオンシップゲームでは、スティールカーテンの前に、9回のターンオーバーを喫し、5-34、1979年のAFCチャンピオンシップゲームではキャンベルが17回のランでわずか15ヤードに抑えられ、13-27で敗れた[7][8]

1980年代から1995年

1980年、11勝5敗で3年連続ワイルドカードでプレーオフに進出したが、オークランド・レイダースに初戦で敗れた。バム・フィリップスヘッドコーチはアダムスオーナーによって解任されて、エド・バイルズが後任となった。

1981年、チームはロードで連勝してスタートしたがその後、ロードで23連敗というNFL記録を作るほど低迷してしまう(この記録は2003年12月21日にデトロイト・ライオンズの24連敗で更新された。)。1981年を7勝9敗、ストライキで短縮された1982年を1勝8敗、1983年を2勝14敗で終えた。1983年第6週でバイルズヘッドコーチは辞任し、チャック・ステュッドリーが暫定ヘッドコーチに就任、シーズン終了後、ヒュー・キャンベルがヘッドコーチとなった。

1984年カナディアン・フットボール・リーグのスーパースター、ウォーレン・ムーンを獲得したが[9]、この年は2勝14敗に終わった。

1985年、チームは高齢のキャンベルをニューオーリンズ・セインツにトレードし、USFLでプレーしていたハイズマン賞受賞者のRBマイク・ロウジャーを獲得した。5勝9敗となったところで、ヒュー・キャンベルは解任され、ジェリー・グランビルがヘッドコーチとなった。

1985年9月29日のダラス・カウボーイズ戦ではムーンがNFL記録となる12サックを浴び4インターセプトを喫するなど散々であった[10]

ダン・パストリーニ

1986年グリーンベイ・パッカーズとの開幕戦に31-3で勝利したが、5勝11敗に終わった。

その後1987年から1993年まで7年連続プレーオフに進出しAFCの強豪の1つとなった。この間1991年には1967年以来となる地区優勝を果たしている。

ストライキで1試合減り、3試合で代替選手が出場した1987年、9勝6敗で7年ぶりにプレーオフに進出、ワイルドカードでは、シアトル・シーホークスをオーバータイムの末破り、ディビジョナルプレーオフでデンバー・ブロンコスに敗れた。

1988年、10勝6敗でワイルドカードでプレーオフに進出、雪の降る敵地クリーブランド・スタジアムクリーブランド・ブラウンズを24-23で破ったが、翌週バッファロー・ビルズに敗れた。

エースQBとしてチームを支えたウォーレン・ムーン(左)

1989年1990年は、ともに9勝7敗でワイルドカードでプレーオフに進出したが、ピッツバーグ・スティーラーズ、シンシナティ・ベンガルズに敗れた。

1991年、チームは25年ぶりに地区優勝を果たした。プレーオフ、デンバー・ブロンコス戦では残り2分07秒、24-23と1点リードしていたが、敵陣2ヤード地点からジョン・エルウェイに98ヤードのドライブで、最後デビッド・トレドウェルに逆転FGを決められて24-26で敗れた[11]

1992年、最終週にバッファロー・ビルズを破り、10勝6敗でプレーオフに進出した。翌週のワイルドカードプレーオフでもビルズと対戦、前週の試合で負傷したジム・ケリーを欠くビルズに対して、後半開始早々35-3とリードしたものの、オーバータイムの末、38-41で敗れた。敗戦直後にその年NFL3位のディフェンスを築いたジム・エディディフェンスコーディネーターは解任された。

1993年、チームは12勝4敗でAFC中地区優勝を果たしたが、プレーオフ2回戦でカンザスシティ・チーフスに敗れた。これに怒ったアダムスによってムーンはミネソタ・バイキングスにトレードされることとなった。

1994年、ムーンを失ったチームは2勝14敗に終わった。

1995年、前年の低成績によりドラフトでは高順位となり、QBスティーブ・マクネアを獲得することができた。

本拠地移転

17年間コーチとして務めたジェフ・フィッシャー

1987年、アダムスオーナーはフロリダ州ジャクソンビルへの移転を計画していることを公表した。この時点でアストロドームは50,000人しかフットボールゲームで収容できず、これはNFLのスタジアムの中で最小であった。市当局は6,700万ドルをかけて10,000人の収容人数増、65のラグジュアリボックスを追加する改修を行ったがこれはその後30年間の増税が必要となった。

1995年、またもアダムスは新スタジアム建設を市当局に働きかけたがアストロドームに代わる新スタジアム建設が控えていたため良い返事を得ることができなかった。そしてテネシー州ナッシュビル市長のフィル・ブレーデセンと秘密交渉をして、1995年シーズン終了後、1998年からナッシュビルに移転することを発表した。翌年のオーナー会議でテネシーへの移転は23-6で承認された[12]。市は1億4400万ドルをかけて新スタジアムを建設することを約束した。後にテネシー州政府も、チーム名をナッシュビルではなくテネシーとすることなどを条件にスタジアム建設の資金を提供している。

1996年、観客が20,000人以下しか入らず、フィールド上の声がメインスタンドでも聞けるほどであった。チームはロードゲームでは6勝2敗だったが、ホームゲームで2勝6敗に終わり8勝8敗であった。市はアダムスに早期移転を了承しこの年がヒューストンでの最後のゲームとなった。

1997年、ナッシュビルには当時収容人数最大のスタジアムは41,000人が入場できるヴァンダービルト・スタジアム(ヴァンタービルト大学のスタジアム)があったがアダムスはこれを嫌い、メンフィスにあるリバティーボウル・メモリアルスタジアムを新スタジアムができるまでの2年間の本拠地と定めた。そのため本拠地をナッシュビルに置いていたチームはシーズン全ての試合をアウェーで行うかのようになってしまった。この決定はメンフィス、ナッシュビル双方の市民にとって不幸なことでメンフィス市民は対抗意識のあるナッシュビルを本拠地とするチームに関心を示さず、ナッシュビル市民は320kmのドライブをして自分たちのチームの応援に行く羽目になった。1950年代以降史上最低の観客動員となってしまった。このため最後の主催ゲームである対ピッツバーグ・スティーラーズ戦のみヴァンタービルト・スタジアムで行われた。この試合には50,677人の観客が入り、多くのファンが入場できなかったが観客の2/3はスティーラーズファンであった。

1998年、前年の反省からアダムスは方針転換。本拠地をヴァンダービルト・スタジアムに変更した。

ナッシュビル移転後

1998年シーズン中、ナッシュビルに相応しい新しい愛称を募集した。この時、オイラーズから愛称が変更されても、引き続きヒューストン・オイラーズ時代の歴史を引き継いでいく明言した[注 1]。新チームの名称を決めるための委員会が設けられたがそこでアダムスはパワー、強さ、リーダーシップといったイメージが連想される名称とすることを求めた。1998年12月22日に新しいチーム名がテネシー・タイタンズとなることが発表された[注 2]

1999年、ナッシュビルに新スタジアムとなるアデルフィア・スタジアム(現:ニッサン・スタジアム)が開場し新たな本拠地となる。この年、チームはジャクソンビル・ジャガーズに地区優勝こそ譲ったものの13勝3敗で地区2位となりプレーオフに出場。その第1戦となるバッファロー・ビルズ戦で、 後にミュージック・シティ・ミラクル(Music City Miracle)と呼ばれるようになるビッグ・プレイが飛び出す。残り16秒でビルズのフィールドゴールが決まり15-16とリードを許した直後、キックオフをレシーブしたロレンゾ・ニールからのハンドオフを受けたタイトエンドのフランク・ワイチェックが、自陣から見て左サイドライン際にいたケビン・ダイソンにラテラルパス(横方向のパス)を送ったのである。ボールを受けたダイソンは75ヤードを走り逆転のタッチダウンを挙げた[13]。キックオフ・リターン中のパスプレイという虚を突いたこのプレイは「ホームラン・スローバック」と呼ばれている[注 3][14]。その後インディアナポリス・コルツ戦ではエディ・ジョージがチームのプレーオフ記録となる162ヤードを走り、ディフェンスは相手の2年目QBのペイトン・マニングのパスを43回中19回しか成功させず19-16で勝利した。ジャガーズに対してはディフェンスが6回のターンオーバー、セイフティ1回を記録し33-14で勝利し第34回スーパーボウルに出場した。最後の攻撃でケビン・ダイソンが残り1ヤードのところでタックルされて(このプレイはザ・タックルと呼ばれている。)タッチダウンが奪えず16-23で敗れた。なおタイタンズはこの年14勝2敗の成績を残したジャガーズを破った唯一のチームとなった(レギュラーシーズン2勝及びAFCチャンピオンシップゲーム

2000年、チームは13勝3敗でオイラーズ時代の1991年1993年に次いで3度目のAFC中地区優勝を果たしたがプレーオフ初戦でその年の第35回スーパーボウルを制したボルチモア・レイブンズに敗れた。

2002年、この年から再編となったAFC南地区優勝を果たしたがAFCチャンピオンシップゲームでオークランド・レイダースに敗れた。

2003年、所属のスティーブ・マクネアペイトン・マニングとシーズンMVPを分け合う活躍を見せたが第38回スーパーボウルを制したニューイングランド・ペイトリオッツに敗れた。

2004年、主力選手に怪我人が多く出たため5勝11敗に終わる。シーズン終了後チームのフロントはデリック・メイソン、サマリ・ロール、ケビン・カーターなど多くの選手をトレードしたり契約を打ち切った。これはチームがサラリーキャップをオーバーしたためである。

2005年、NFL1若いチームとなる。ドラフト1巡指名のコーナーバック、パックマン・ジョーンズ、オフェンスタックルのマイケル・ルース、3人のワイドレシーバー(ブランドン・ジョーンズ、コートニー・ロビー、ロイデル・ウィリアムス)などのルーキーがプレイした。このシーズンは4勝12敗に終わった。

2006年、スティーブ・マクネアはこの年のドラフト4巡目指名権と引換えにボルチモア・レイブンズに移籍となる。結果8勝8敗に終わったがヴィンス・ヤング(この年のドラフト全体3位で指名)が先発した試合では6連勝を含み8勝5敗であった。

2007年、10勝6敗となりプレーオフに出場したが1回戦でサンディエゴ・チャージャーズに敗れている。

QBのケリー・コリンズ

2008年、開幕戦でQBのヴィンス・ヤングが負傷し、ケリー・コリンズが先発することとなったがチームはニューヨーク・ジェッツに敗れるまで開幕から10連勝を果たし[15]、シーズンを13勝3敗で終えプレーオフの第1シードを獲得した[16][17]。しかしディビジョナル・プレーオフでボルチモア・レイブンズに敗れてシーズンを終えた[18]

2009年、チームはコリンズと2年間1500万ドルの契約を結んだ[19]。開幕前期待されたものの開幕戦から6連敗を喫した[15]。次の試合より先発QBをケリー・コリンズからヴィンス・ヤングに変更した後、連勝を続け奇跡のプレーオフ進出なるかと注目を浴び[20][21]プレーオフは逃したものの8勝8敗でシーズンを終えた。シーズン最終戦まで11試合連続で100ヤードラッシュを見せた[22]クリス・ジョンソンが史上6人目となるシーズン2000ヤードラッシュを達成した[23]。ジョンソンはRBとしてのリーグ最高年俸を期待し[24]契約の見直しを要求、8月にチームが提示した金額での契約に応じた[25]

2010年、チームはNFL選手会代表も務める、プロボウルCのケビン・マワイと再契約を結ばなかった[26]。また5年間で38.5サックをあげた[27]カイル・バンデンボッシュも失った[28]。チームは5勝2敗と好スタートを切ったもののヴィンス・ヤングが負傷した後、成績は低迷し残り9試合で8敗し、6勝10敗に終わりプレーオフ出場を逃した。ヴィンス・ヤングは戦力外を通告された。ジェフ・フィッシャーヘッドコーチはアダムスオーナーより続投を明言された[29]がその後解任され、マイク・マンチャックがヘッドコーチに就任、シアトル・シーホークスからQBマット・ハッセルベックを獲得した。

2011年、シーズン開幕戦直前までクリス・ジョンソンがホールドアウトを行い、開幕戦にこそ間に合ったものの、最終的に1,047ヤード獲得 (1回平均4.0ヤード)と、自己最低の成績に終わった。しかし、ハッセルベックがムーン以外ではチーム初となる年間パス3,500ヤードを達成するなどの活躍もあり、シーズンは9勝7敗で終えた。タイブレークにより、チームはプレーオフこそ逃したが、先発QBとHCが変わったにもかかわらず、下馬評を大きく上回る活躍を見せた。

2012年、2年目のQBジェイク・ロッカー(ドラフト全体8位指名)がハッセルベックとの先発争いに勝って、エースQBに指名された。ロッカーは、第4週に負傷退場、左肩を脱臼していることが分かった[30]

2013年、三年連続してプレーオフ出場を逃してHCのマイク・マンチャックは解任された。

2014年、ケン・ウィゼンハントがHCに就任した。だがチームは二年連続して地区最下位となる。

プロボウルに5年連続で選出されたDLのジャーレル・ケーシー

2015年、この年までの間に新スタジアムの命名権者の破綻などにより名称は変遷していたが、新命名権者が日産自動車となり、スタジアム名はニッサン・スタジアムとなる。これは20年の長期にわたる命名権契約である。この年のドラフト全体2位でQBマーカス・マリオタを指名した。シーズン終盤にウィゼンハントは解任され、マイク・ムラーキーが臨時HCとなる。

2016年、この年もマイク・ムラーキーがHCを勤め地区二位となったがプレーオフは逃した。

2017年、ワイルドカードでプレーオフに進出し、初戦はカンサスシティ・チーフスを破ったが二戦目でニューイングランド・ペイトリオッツに敗れた。翌日、マイク・ムラーキーは退任し、後任はマイク・ブレイベルが就任した。

2018年、最終戦で敗れてプレーオフ進出を逃した。

2019年は、シーズン途中からマーカス・マリオタに代えて、マイアミ・ドルフィンズからトレードされたライアン・タネヒルを先発QBとして起用し始めた。シード6位のワイルドカードでプレーオフ進出を果たし、初戦では前年のスーパーボウルチャンピオンでシード3位のニューイングランド・ペイトリオッツを破り、第二戦ではシード1位のボルティモア・レイブンズを破った。だがAFCチャンピオンシップゲームではカンサスシティ・チーフスに敗れた。

2020年、マリオタはラスベガス・レイダースに移籍した。デリック・ヘンリー(RB)の史上8人目となる2000ヤード超えランなどの活躍もあり、最終戦で勝利し11勝5敗で地区優勝を遂げた。プレーオフでは初戦でボルティモア・レイブンズに敗れた。

2021年は、アトランタ・ファルコンズよりWRフリオ・ジョーンズをトレードで獲得した。12勝5敗でカンファレンス1位となり、プレーオフではワイルドカード・ラウンドを免除されたが、初戦でシンシナティ・ベンガルズに敗れた。

2022年、第13週のフィラデルフィア・イーグルスに敗れた2日後、7勝5敗と地区首位に立っていたが、7年間を共にしたGMのジョン・ロビンソンを解雇した。チームはこの年のドラフトA・J・ブラウンをトレードで放出していたが、ブラウンがその試合で2タッチダウンをあげる活躍を見せていた[31]。最後の7試合は7連敗を喫し、最終戦でジャクソンビル・ジャガーズに敗れて7勝10敗でシーズンを終え、地区優勝とプレーオフを逃した。翌日OCのトッド・ダウニングを解任した。フォーティナイナーズの人事部門責任者だったラン・カートンを新GMとした。

2023年11月、2027年に使用開始予定である新スタジアムの命名権をさらに20年間、日産に与える契約を結んだ[32]。第15週に地区最下位が決定し、プレーオフ進出の道は断たれた。シーズン終了直後、HCのブレイベルは解雇された[33]シンシナティ・ベンガルズのOCであったブライアン・キャラハンが後任となった[34]


AFC 2023

チーム
勝率 DIV CON SOS SOV
地区優勝
1 ボルチモア・レイブンズ 13 4 0 .765 3-3 8-4 .543 .529
2[a][b] バッファロー・ビルズ 11 6 0 .647 4-2 7-5 .471 .471
3[b] カンザスシティ・チーフス 西 11 6 0 .647 4-2 9-3 .481 .428
4 ヒューストン・テキサンズ 10 7 0 .588 4-2 7-5 .474 .465
ワイルドカード
5[c] クリーブランド・ブラウンズ 11 6 0 .647 3-3 8-4 .536 .513
6[a][c] マイアミ・ドルフィンズ 11 6 0 .647 4-2 7-5 .450 .358
7 ピッツバーグ・スティーラーズ 10 7 0 .588 5-1 7-5 .540 .571
レギュラーシーズン敗退
8[d] シンシナティ・ベンガルズ 9 8 0 .529 1-5 4-8 .574 .536
9[e][d] ジャクソンビル・ジャガーズ 9 8 0 .529 4-2 6-6 .533 .477
10[e] インディアナポリス・コルツ 9 8 0 .529 3-3 7-5 .491 .444
11[f] ラスベガス・レイダース 西 8 9 0 .471 4-2 6-6 .488 .426
12[f] デンバー・ブロンコス 西 8 9 0 .471 3-3 5-7 .488 .485
13 ニューヨーク・ジェッツ 7 10 0 .412 2-4 4-8 .502 .454
14 テネシー・タイタンズ 6 11 0 .353 1-5 4-8 .522 .422
15 ロサンゼルス・チャージャーズ 西 5 12 0 .294 1-5 3-9 .529 .388
16 ニューイングランド・ペイトリオッツ 4 13 0 .235 2-4 4-8 .522 .529
タイブレーク
  1. ^ a b 直接対決(第4週、第18週)でビルズがドルフィンズに勝利
  2. ^ a b 直接対決(第14週)でビルズがチーフスに勝利
  3. ^ a b カンファレンス勝率でブラウンズがドルフィンズを上回る
  4. ^ a b 直接対決(第13週)でベンガルズがジャガーズに勝利
  5. ^ a b 直接対決(第1週、第6週)でジャガーズがコルツに勝利
  6. ^ a b 直接対決(第1週、第18週)でレイダースがブロンコスに勝利

注釈

  1. ^ この4年前、アート・モデルオーナーにより、旧クリーブランド・ブラウンズがボルチモアに移転しボルチモア・レイブンズとなったが、クリーブランドの市民はブラウンズの歴史を将来再誘致しようとしていたチーム(新クリーブランド・ブラウンズ)に引き継がれるべき、と反対した。後に加入したヒューストン・テキサンズはオイラーズの後継チームとはなっていない
  2. ^ 「タイタン」とはギリシャ神話に登場する巨大な身体を持つとされる神々の総称のティーターンのことである。これはナッシュビルにはギリシャのパルテノン神殿のレプリカや高等教育機関や伝統的な建築物が多くあり、「南部のアテネ」との別称があることが由来となった
  3. ^ キックオフ・リターン中の前方へのパスは反則であるが、ラテラルに関しては規制がない。

出典

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  33. ^ Titans fire head coach Mike Vrabel after six seasons”. NFL. 2024年1月10日閲覧。
  34. ^ QBウィル・レビスと一緒に働くのが“待ちきれない”とタイタンズ新HCブライアン・キャラハン”. NFL Japan. 2024年1月27日閲覧。
  35. ^ ★2018NFL開幕記念★ 幾多の困難を乗り越えて掴んだNFLチアリーダーの夢”. Yahoo! ニュース (2018年9月9日). 2021年2月3日閲覧。






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