スコットランド独立戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/12 20:19 UTC 版)
前史
アサル王家の断絶
1214年に16歳で王位についたアレグザンダー2世は、イングランド王ヘンリー3世の妹ジョーンと結婚し、1236年にはヨーク条約を結んでイングランドとの国境を確定した。その後、1249年にノルウェーからのヘブリディーズ諸島の奪還を目指して進軍中に死去し、8歳のアレグザンダー3世が跡を継いだ。
1255年、アレグザンダー3世は親政に乗り出し、摂政のジョン・ベイリャル (en) らを追放した。また、イングランドの内紛には中立を保ち、内政の安定を保った。そうして、かねてからの懸案だったノルウェー軍の駆逐に乗り出すことになった。1261年にヘブリディーズ諸島の奪還に成功し、1263年には西部のクライド湾でノルウェー王ホーコン4世を討ち破った。3年後のノルウェーとの和平条約で、ヘブリディーズ諸島は正式にスコットランド領となった。
アレグザンダー3世はヘンリー3世の娘マーガレット(ジョーンの姪)と結婚し、3人の子供をもうけていたが、全員に先立たれた。そして1285年に結婚した後妻ヨランド・ド・ドルーとの間に子供はできなかった。1286年、アレグザンダー3世は死去に際して、長女マーガレットがノルウェー王エイリーク2世(ホーコン4世の孫)に嫁いでもうけた孫娘マルグレーテを王位につけるよう遺言した。
長老、重臣たちの擁立により、3歳のノルウェー王女マルグレーテはスコットランド初の女王マーガレットとして即位したが、ノルウェーの王宮で父王の許にとどめられた。国政は合議制で運営されたが、間もなく有力諸侯間の対立が激しくなった。内乱の続いたヘンリー3世の治世下ではほとんど名目のみになっていたとはいえ、イングランド王はヘンリー2世以来スコットランドの宗主であり、エドワード1世はこの機を生かして干渉を行った。すなわち、マーガレットをスコットランドに呼び寄せ、その後イングランド王太子エドワード(後のエドワード2世)と婚約させ、スコットランドの独立は保ったまま王朝連合とするというものである。
1289年にノルウェーを発ったマーガレットの船は途中で大時化に遭い、9月26日にオークニー島(当時はノルウェー領)へたどり着いたところでマーガレットは息を引き取った。わずか7歳であった。そして、これはアサル王家の終焉を意味した。
王位継承者問題とイングランドによる統治
王位継承者の最有力候補は実力者であるジョン・ベイリャル(アレグザンダー3世の摂政の息子)とロバート・ドゥ・ブルース (en) であったが、互いに譲らず混乱が生じ始めた。これを見て、ホラント伯フロリス5世やノルウェー王エイリーク2世、イングランド貴族ら外国人も含めて、王家に少しでも血縁のある者が次々と名乗り出て合計13人となり、収拾がつかなくなった。
内戦の勃発を恐れたスコットランド諸侯たちは、エドワード1世に再び調停を求めた。これを好機と見たエドワード1世は、1291年5月にイングランド軍を率いて両国の国境近くのノーラムで王位請求者や領主たちを集め、調停への服従と空位の間のスコットランド統治権を要求した。スコットランド貴族たちは当初ためらったが、多くの者はイングランドにも所領を持っていた関係上イングランド王に逆らい難く、強大なイングランド軍の無言の圧力もあって、これを了承した。
ジョン・ベイリャルとロバート・ドゥ・ブルースは、共にマルカム4世およびウィリアム獅子王の弟ハンティンドン伯デイヴィッドの女系の子孫であったが、長系優先であればジョン・ベイリャル(デイヴィッドの長女の孫)、血統の近さではロバート・ドゥ・ブルース(デイヴィッドの次女の子)が優位であった。最初の審議で有力な4人(前述の2人とフロリス5世、およびイングランドの男爵ジョン・ヘイスティングス (en) )に絞られたが、審議はしばしば順延された。王国の分割相続も検討されたが、翌1292年11月17日、ベリクで最終的な裁定が行われ、正式にジョン・ベイリャルが国王に指名された。この間、エドワード1世はスコットランドの支配者として振る舞い、ジョン・ベイリャルは王位についても傀儡に近く、イングランドに対して屈辱的な臣従を誓わされた。
ジョン・ベイリャルは、しばらくはエドワード1世の様々な要求に従っていたが、臣下の支持を失っていった。スコットランド貴族たちは12人の評議会を作り、1294年にフランスへの兵員動員を拒否し、フランス王フィリップ4世と同盟(いわゆる古い同盟)を結んだ。これに対し、エドワード1世はイングランド北部カーライルに軍を集め、同盟の破棄を迫った。
1296年4月、ジョン・ベイリャルはイングランドへの臣従の拒否を宣言し、イングランド北部へ侵攻して、自身の岳父であるサリー伯ジョン・ド・ワーレンらが率いるイングランド軍とダンバーで対戦した。ダンバーではスコットランド軍が多数であったが、統制が取れておらず、イングランド軍が陣形を組み換えたのを逃走する準備と見て無謀な攻撃を行い、大敗した。ジョン・ベイリャルは一旦は逃れたものの、10月にストロカスロで降伏した。
スコットランドはエドワード1世によって「スクーンの石」を奪われ(スコットランド人は王冠を捨て、以後のスコットランドに王位は許さない、もしくはイングランド王がスコットランド王を兼ねるというイングランドの意思を表す)、ジョン・ベイリャルは廃位させられ、長男エドワードとともにロンドンへ送られ、3年間幽閉された。スコットランドには王位が許されず、以後スコットランドの統治は、ジョン・ド・ワーレンを総督として、イングランド人によって統治されることになった。
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