スコットランド独立戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/12 20:19 UTC 版)
第一次スコットランド独立戦争
1297年5月、イングランド兵とのトラブルに巻き込まれたウィリアム・ウォレスは、ラナークにてイングランド人の州長官 (High Sheriff) ヘッセルリグを殺害した (Action at Lanark) 。民衆はウォレスを支持し、イングランド支配下のスコットランドにおいて大反乱が勃発した。ウォレス率いる反乱軍は、同年9月スターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を徹底的に打ち負かし勢いづいた。しかし翌1298年、フォールカークの戦いでイングランド軍に大敗し、スコットランド人によるこの大反乱は失敗に終わる。ウォレスはその後も7年間にわたってゲリラ戦を行い、根強くイングランドに抵抗し続けたが、1305年に捕らえられ、反逆者として八つ裂きの刑に処せられた(ウォレスは今なおスコットランドでは愛国者・英雄として称えられている)。
ウォレス以外にもイングランドに抵抗する者は続々と現れたが、彼らには独自の利害があり、権力闘争に明け暮れ、連携を欠いていた。その中の一人が、マーガレット女王死後の13人の王位請求者の一人の孫、祖父と同名のロバート・ドゥ・ブルース(ロバート1世)である。ロバートは自らの王位を望んでいたため、ウィリアム・ウォレス率いる一連の反乱への協力には終始曖昧な態度を取り続けた。また、1306年2月には反乱軍ベイリャル派の首領でジョン・ベイリャルの甥である「スコットランドの守護者」ジョン・カミンを教会内で殺害し、教皇クレメンス5世から破門される始末であった。ちなみに、ジョン・カミンの同名の父 (en) も王位請求者の一人であった。ともあれ、最大のライバルであったジョン・カミンを殺害し、権力闘争に打ち勝ったロバートは、同年3月25日に戴冠式を強行した。これは、イングランド統治下にありながら独断でスコットランド王位についたことを意味した。
事態を重くみたイングランドは同年6月26日に討伐軍を派遣し、ロバートを徹底的に打ち負かした。主な協力者は処刑され、ロバート自身も北アイルランド沖ラスリン島まで逃れた。しかし翌1307年3月、ロバートの腹心ジェームズ・ダグラス (en) がダグラス城 (Douglas Castle) を攻撃しイングランドを打ち破ってからは、スコットランド各地で連勝を重ねるまでに盛り返した。対するイングランドもエドワード1世自ら病をおして出陣したがカーライル近くで病没し、イングランド軍は勢いを失ってしまった。後継者エドワード2世は進軍を中止し、(国王死去による国内の動揺を抑えるため)ロンドンへ戻り、以後スコットランドにおける軍事は臣下に任せきりにした。こうした中、ロバートは各地でイングランド軍を破り、勢力圏を広めていった。
1314年、ロバートがスコットランドの大部分を再征服するに至って、イングランドはようやく国王自ら大軍を率いてスターリングへ向かったが、同年6月、バノックバーンの戦いでロバート軍に大敗した。この敗北によりイングランドはスコットランドにおける統治権を完全に失い、1318年にはスコットランドから全てのイングランド兵が駆逐された。1320年、アーブロース寺院 (Arbroath Abbey) にてスコットランドはイングランドからの独立を宣言した(アーブロース宣言)。教皇ヨハネス22世は、1323年にロバート1世の破門を解き、スコットランド王として承認した。
1327年、イングランド王エドワード2世は王妃イザベラ率いる反乱軍によって廃位させられ、代わって息子エドワード3世がイングランドの王位についた。翌1328年、イザベラの申し入れにより、エドワード3世の末妹ジョーンとロバートの長男デイヴィッド(後のデイヴィッド2世)が結婚し、両国の間で平和条約が結ばれた。
- 1 スコットランド独立戦争とは
- 2 スコットランド独立戦争の概要
- 3 前史
- 4 第一次スコットランド独立戦争
- 5 第二次スコットランド独立戦争
- 6 系図
- 7 関連項目
- スコットランド独立戦争のページへのリンク