ジャンボリー作戦
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背景
1944年(昭和19年)8月にマリアナ諸島を占領したアメリカ軍は同年11月以降、マリアナ諸島に配備したB-29爆撃機により東京などに対する本格的な日本本土空襲を開始した。B-29による初期の空襲は工場などを目標とした高高度精密爆撃を中心としたが、命中率が低く工場の被害はさほど大きくなかった。アメリカ軍はB-29による空襲に先立って、空母機動部隊の小型機による空襲で日本側の航空戦力を撃破する計画であったが、空母機動部隊がフィリピンの戦いにかかりきりとなったために実現しなかった[1]。
1945年(昭和20年)2月、フィリピンの戦いが一段落したアメリカ軍は、硫黄島攻略に着手した。そして上陸戦開始に先立ち、攻略部隊を守るための陽動と航空戦力の減殺を目的として、高速空母機動部隊である第58任務部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将)により関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃することになった[2]。このときの第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹として、戦艦8隻をはじめとした多数の護衛艦艇を伴う強力な艦隊であった(詳細後述)。部隊は空母2-4隻を基幹とする5個任務群に分かれており、うち第58.5任務群は夜間戦闘機を積んでいた[3]。搭載航空隊は日本軍迎撃機との空中戦を想定して、各大型正規空母の搭載機約100機のうち73機以上をF6F戦闘機かF4U戦闘機に割いた戦闘機中心の編制としている[3]。航空隊の約半数は本作戦が初めての実戦任務であったことが、アメリカ側の懸念材料であった[3]。このほか、第58任務部隊を支援するため、第50.8任務群の多数の補給艦も出動した[4]。1942年4月に陸上用爆撃機を空母から発進させて行ったドーリットル空襲以来2年10ヶ月ぶりの空母による日本本土空襲であり[3]、通常の艦上機による初の本土空襲であった[5][注 1]。
一方、日本軍も硫黄島へのアメリカ軍来攻が近いと予想していたが、陸海軍とも航空隊がフィリピンの戦いで消耗した状態であり、教育部隊を実戦部隊化するなどして戦力の回復を進めている途上であった。陸軍航空隊は第10飛行師団(師団長心得:吉田喜八郎少将)、海軍航空隊は第三航空艦隊(三航艦、司令長官:寺岡謹平中将)を関東地区に展開して、高射第1師団などの対空砲部隊とともにB-29爆撃機に対する迎撃に当たらせていた。日本本土と小笠原諸島の間には特設監視艇が哨戒線を張って、主にB-29爆撃機に対する警戒に当っていた。また、連合艦隊司令部では、アメリカ海軍機動部隊が本土方面に来襲する可能性が高いと警戒しており、捷三号作戦計画に基づき三航艦を中心とした迎撃戦闘を準備していた[7]。なお、このころには日本側は深刻な航空燃料不足に悩まされており、飛行訓練も実施困難で戦力再建の足かせとなっていた[8]
2月上旬に日本軍は陸海合同で硫黄島攻防戦の図上演習を行った結果、硫黄島の防衛は困難で、航空隊がかなり大きな損害を受けてしまうとの予想に達した。そのため、防衛総司令部は硫黄島にアメリカ軍が襲来しても本格的な航空反撃は実施せず、戦力を温存する方針で指導したが[9]、現場の第10飛行師団は積極的な迎撃を考えていた。また、三航艦も新たに編入された第六〇一海軍航空隊(六〇一空)を硫黄島攻防戦に投入することにし、六〇一空に他隊からかき集めた彗星艦爆・零戦と搭乗員を増強、2月14日に香取飛行場への転進を下令した[10]。なお、館山飛行場には、横須賀鎮守府が発令した対潜掃討作戦「S21作戦」のため、対潜航空部隊が集結中であった[注 2]。
注釈
- ^ ただし、日本の内地のうち島嶼部に対する機動部隊による空襲は、本作戦以前にも1943年9月1日・1944年5月20日など小笠原諸島に対して数回行われているほか[6]、1944年10月の南西諸島に対する十・十空襲がある。
- ^ 1944年2月14日、横須賀鎮守府は特設監視艇隊の潜水艦による被害続出に対抗してS21作戦を発令し、第九〇三海軍航空隊(第903空)大湊派遣隊・串本派遣隊の各一部と横須賀海軍航空隊増援兵力が館山に集結していた[11]。
- ^ 2月16日、館山飛行場・香取飛行場・茂原飛行場(現茂原市)・神ノ池飛行場(現鹿嶋市)・木更津飛行場・八丈島飛行場の各海軍基地が、アメリカ軍機により低空からの機銃掃射を受けて、彗星艦爆7機・銀河陸爆1機・天山艦攻4機・零式輸送機1機・九九艦爆1機・陸攻18機・零戦12機・その他小型機6機が地上で炎上した[13]。
- ^ 2月16日、伊豆諸島に向けて輸送任務中の補助監視船「第一若丸」、八丈島哨戒線に配備の特設監視艇「第二長周丸」(尾藤竹三:60総トン)、「第五盛秋丸」(山本芳松:99総トン)、「安波丸」(加澤一造:92総トン)が空襲により沈没した[17]。また、15日に鳥島南東沖で特設監視艇「第三朝洋丸」(西大洋漁業:74総トン)が消息を絶っており、日本側はこれも空襲により沈められたものと記録した。
- ^ 『戦史叢書』によると、空襲により、神津島東方を哨戒中の補助監視船「第十一号正栄丸」(四宮爲藏:53総トン)と八丈島哨戒線の特設監視艇「第二栄福丸」(小野田八郎右衞門:99総トン)が沈没、特設監視艇「第三松福丸」(鳥守岩松:66総トン)が小破した。また、八丈島哨戒線の特設監視艇「栄福丸」(澤助司:98総トン)と「第五宝栄丸」(内山政次郎:90総トン)が機動部隊との水上戦闘で撃沈された。ただし、アメリカ海軍の『公式作戦年誌[21]』では、2月17日にアレン・M・サムナー級駆逐艦「ヘインズワース」(en)が特設駆潜艇「和風丸」(日本側記録では空襲による沈没)と特設監視艇「第三十六南進丸」(日本側記録では2月18日沈没)を撃沈したとしている。
- ^ 『戦史叢書』によると、八丈島哨戒線で特設監視艇「第三十六南進丸」(西大洋漁業:86総トン)、「第十七長運丸」(山田博吉:95総トン)、「第三共和丸」(加藤文吉:154総トン)が沈没している[17]。ただし、アメリカ海軍の『公式作戦年誌[21]』及び『モリソン海戦史[15]』によると、2月17-18日の夜に駆逐艦「バートン」(en)、「イングラハム」、「モール」が特設監視艇「第三十五南進丸」(西大洋漁業:86総トン)、「第三共和丸」、「第五福一丸」(昭和漁業:150総トン)を撃沈、駆逐艦「ドーチ」、「ウォルドロン」(en)が特設駆潜艇「鮎川丸」(極洋捕鯨:198総トン)を撃沈したが、「ウォルドロン」は体当たりをした際に損傷、「ドーチ」も3インチ砲で反撃されて3人戦死としている。また、「鮎川丸」は実際には14日に台湾方面にて座礁し放棄された[22]。
- ^ 第5艦隊司令長官のレイモンド・スプルーアンス大将座乗[3]。
出典
- ^ 防衛研修所(1975年)、308頁。
- ^ Morison (1960) , p. 20
- ^ a b c d e f Morison (1960) , p. 21
- ^ a b c d Carter, Worrall Reed. Beans, Bullets, and Black Oil - The Story Of Fleet Logistics Afloat In The Pacific During World War, Washington DC : Department of the Navy, 1953, pp. 283-284.
- ^ 防衛研修所(1975年)、317頁。
- ^ 防衛研修所(1975年)、165、191頁。
- ^ 防衛研修所(1975年)、268-269頁。
- ^ 防衛研修所(1975年)、270-271頁。
- ^ 防衛研修所(1975年)、325頁。
- ^ a b c 防衛研修所(1975年)、331-333頁。
- ^ a b 防衛研修所(1975年)、279頁。
- ^ a b c d e f Morison (1960) , p. 22
- ^ a b c d e f g h i 防衛研修所(1975年)、319-323頁。
- ^ a b c d 防衛研修所(1968年)、477頁。
- ^ a b c d e Morison (1960) , p. 25
- ^ a b 防衛研修所(1968年)、478頁。
- ^ a b c d e f g h 防衛研修所(1975年)、281-283頁。
- ^ a b c d e Morison (1960) , p. 24
- ^ a b c 船舶運営会 『戦時喪失船舶一覧表』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050010100、画像38枚目。
- ^ a b c d e 防衛研修所(1968年)、480頁。
- ^ a b Cressman, Robert, The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II, Annapolis MD: Naval Institute Press, 1999, pp. 623-626.
- ^ 鮎川丸
- ^ サミュエル・モリソン 『モリソンの太平洋海戦史』 光人社、2003年、399頁。
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