エルサレム攻囲戦 (1099年) エルサレム攻囲戦 (1099年)の概要

エルサレム攻囲戦 (1099年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:17 UTC 版)

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エルサレム攻囲戦
第1回十字軍

エルサレムの戦い
戦争第1回十字軍
年月日1099年6月7日 - 7月15日
場所エルサレム
結果:十字軍の勝利
交戦勢力
十字軍 ファーティマ朝
指導者・指揮官
トゥールーズ伯レーモン
ゴドフロワ・ド・ブイヨン
イフティハール・アッ=ダウラ
戦力
歩兵 12,000
騎士 1,500
守備隊 1,000
損害
歩兵 11,000 守備隊 1,000
市民 40,000
第1回十字軍

背景

1098年6月にアンティオキア攻囲戦を成功裏に終えたものの、十字軍は半年以上アンティオキア周辺のシリア北西部から先に進まなかった。対立する諸侯同士をまとめる役を担ってきた教皇使節アデマールはアンティオキア陥落後に蔓延した疫病で没し、次の行動をどうすべきかをめぐる諸侯の際限ない諍いを止める者も、行軍の指揮を執る者もいなくなった。タラント公ボエモンは自分がアンティオキアを領有すると言い張り、ブーローニュのボードゥアンエデッサを占領したまま出てこなくなった。十字軍はアンティオキア周辺の農村や小都市を襲うばかりで、ボエモンらに不満を募らせていたトゥールーズ伯レーモン(レーモン・ド・サンジル)も1098年冬にマアッラ攻囲戦マアッラを落としたが、貧しい騎士や歩兵や非戦闘員らは、いつまで経ってもエルサレムへ向かわないレーモンらを非難し、諸侯ら抜きで行軍を再開すると脅して突き上げた。

アルカ攻囲戦

1098年12月末から翌1099年1月初めにかけて、ノルマンディー公ロベールとボエモンの甥のタンクレードが、諸侯の中でも裕福で奉仕に対する対価を払うことのできるレーモンの封臣となることに同意した。一方、ゴドフロワ・ド・ブイヨンは、兄であるブーローニュのボードゥアンが占領したエデッサからの収入を得ていたため、レーモンの封臣になることを拒んだ。ボエモンはアンティオキアにとどまりアンティオキア公となる道を選んだ。

1月5日、レーモンはマアッラの城壁を取り壊し、1月13日にはマアッラを焼き払って南への行軍を再開した。レーモンは巡礼者の装束を着て裸足で歩み、ロベールとタンクレードが続いた。シリア内陸のオロンテス川渓谷を南下する間、大きな抵抗にはほとんど遭うことはなかった。諸都市のムスリム政権は争いを避け、十字軍に補給を行って早く通過してもらうことを望んでいたのであった。

アルカの城壁

レーモンは、ボエモンがアンティオキアを手中に収めたのと同様に、自分も領土を持ちたいと考え、地中海岸の富裕な港湾都市トリポリの占領を企てた。しかしその前に、レーモンはその近くの内陸の町でトリポリに属するアルカ(レバノン)英語版(Arqa、アマルナ文書旧約聖書にはイルカタ Irqata あるいはアルキテ Arkite の名でも登場する)の攻略から行った。

一方ゴドフロワと、同じくレーモンの封臣となることを拒んだフランドル伯ロベールは、レーモンらとは別行動を取り、ラタキアに残っていた十字軍将兵らと2月に地中海沿いに南下を開始した。アンティオキアのボエモンも一時は彼らとともに行軍したがすぐにアンティオキアに引き返した。タンクレードはレーモンとの原因の伝わらない諍いの後、レーモンの指揮下を離れてゴドフロワ一行に合流している。ゴドフロワ一行に連動した別の分隊の指揮はベアルン子爵ガストンが執った。

ゴドフロワ、ロベール、タンクレード、ガストンらは3月にアルカに着いたが、レーモンによる包囲戦はまだ続いていた。アルカ市民は、アンティオキアやマアッラで市民が十字軍との戦いの末に辿った悲惨な運命を聞き、二の舞になるまいと死に物狂いの抵抗を行っていた。アルカで再び合流した諸侯の間では、不仲から来る緊張が高まった。同時に、聖職者の間でも緊張は高まっていた。教皇使節アデマールの死後、聖職者の指導者も不在となっていた。アンティオキア城内でのペトルス・バルトロメオによる幻視と聖槍発見は十字軍の士気を高めたが、一方でこれをインチキではないかと疑う聖職者は多かった。ついに4月、有力な聖職者のアルヌール(Arnoul de Chocques, Arnulf of Chocques, エルサレム陥落後にカトリック側の初代エルサレム総司教になる人物)がペトルスに対し神明裁判(火の試練)を行ってみよと言った。ペトルスは真実を証明するために火の中をくぐったが、大火傷を負って12日後に没した。レーモンの後ろ盾を受けたペトルスの発見した聖槍は、十字軍内のレーモンに対する権威を高めるものでもあった。そのペトルスが神明裁判に敗れ聖槍も偽物だという話が広まると、レーモンの権威も損なわれた。

アルカ攻囲戦は5月13日まで続いたが、攻める諸侯の著しい不仲と、守る住民の必死の抵抗で、まったく進展がないまま十字軍は攻囲戦をあきらめ包囲を解いた。レーモンの軍はここから海へ出て地中海側を南下し、逆にゴドフロワ・ロベール・タンクレードらは内陸に向かいヨルダン川渓谷を南下した。

エルサレム攻囲戦

聖都への到達

スンニ派テュルク系のセルジューク朝パレスチナやシリアを争奪していたエジプトシーア派王朝ファーティマ朝は、対セルジューク朝の同盟を結ぶため十字軍と和平交渉をすべく、アンティオキアやアルカを包囲する十字軍の陣営に再三使者を送ってはシリア分割占領などを持ちかけていた。その間の1098年夏、ファーティマ朝はアンティオキア陥落によるセルジューク朝の弱体化に乗じ、セルジューク朝系のアルトゥク家からエルサレム市を奪還している。しかし十字軍はあくまでエルサレムへの進軍を主張し、ファーティマ朝の申し入れを無視した。ファーティマ朝のエルサレム司令官であったイフティハール・アッ=ダウラ(Iftikhar ad-Daula)はパレスチナへの進軍を再開した十字軍に不安を抱き、十字軍に呼応する恐れのあるキリスト教徒市民の追放、郊外の井戸を十字軍に使わせないための毒物の投入、前年の攻囲戦により破壊された城壁の修理、食料の備蓄などを行っている[1]

5月13日、十字軍のうちレーモンの率いる一団はトリポリに到着し、市の支配者ジャラール・アル=ムルクは馬や食糧などを与えて十字軍を送り出した。年代記『ゲスタ・フランコルム』(Gesta Francorum, 『フランク人の事蹟』、著者の名は不明)によれば、彼はファーティマ朝からエルサレムを取り返してくれたらキリスト教徒に改宗してもよいとまで言ったという。十字軍は海岸沿いに進み、5月19日ベイルート5月23日ティールと歓待を受けながら南下し、ナフル・アル=カラブ(犬の川)を越えてついにファーティマ朝領内に入った。ヤッファから内陸に折れた後、6月3日には住民が退散して無人となったラムラに入った。十字軍はここでエルサレムに入る前に、ラムラ近くのリッダ(Lydda, 聖書ではロード)生まれの聖人で、十字軍内でも人気の高かった聖ゲオルギウスを記念し、当地の聖ゲオルギウス聖堂でカトリックのラムラ=リッダ司教座を立てている。一方内陸を進むゴドフロワは6月6日、タンクレードとガストンにベツレヘムを占領するよう指示し、タンクレードは自らの軍旗を征服したベツレヘムの生誕教会に掲げた。

こうして6月7日、十字軍はついにエルサレムに到達した。兵士らの多くは、長い戦いの旅の末にようやく見ることのできた聖都に涙したという。

包囲

城壁を攻める十字軍

アンティオキアの際と同じく、十字軍は攻城戦の準備を始めた。しかしまたも食糧と水の不足に見舞われ、十字軍兵士は包囲される市民以上に、飢えや渇きに苦しんだ。市内は攻城戦に備えて食糧の備蓄が進められていた反面、十字軍は郊外の農村の井戸が毒で使えなかった。諸侯の十字軍に参加した騎士5,000人ほどのうちこの時残っていたのは1,500人ほどで、歩兵も30,000人ほどいたうち12,000人ほどが健康で残っているだけだった。ゴドフロワ、フランドル伯ロベール、ノルマンディー公ロベール(彼もレーモン率いる軍団を去りゴドフロワの軍団に合流していた)らは市の北側をヤッファ門近くの城塞「ダビデの塔」付近まで包囲し、レーモンらは陣営を市の西側に置き、ダビデの塔からシオン山まで包囲していた。6月13日に行われた城壁への直接攻撃は失敗に終わった。水も食糧もなく、十字軍側では馬も人間もばたばたと死んでゆき、十字軍は不利を悟り始めた。

攻める十字軍

最初の攻撃が失敗したちょうどその時、ジェノヴァ共和国ガレー船2隻がヤッファ港に入港し、十字軍は当面の補給を行うことができた。十字軍は同時に、サマリアから攻城塔を組み立てるための木材を徴発し始めた。しかしなおも食糧と水は不足していた。しかも6月末、十字軍はエジプトからファーティマ朝の軍隊が北に向かって行軍していることを知る。

裸足の行列

絶体絶命の危機にあった十字軍の士気をよみがえらせたのは、ペトルス・デジデリウス(Peter Desiderius)という司祭が幻視を体験したという話をした時だった。教皇使節アデマールの霊が彼のもとに現れ、ヨシュアエリコの城壁を崩した故事にちなんで、3日間の断食の後、裸足で市壁の周りを行進すれば、9日以内に城壁は崩れると告げたのであった。

十字軍は3日間の断食(もっとも、すでに食べるものはなかった)を耐え、7月8日にエルサレム城外を巡る裸足の行進を行った。聖職者がトランペットを吹きならし、兵士らが讃美歌を歌って歩く奇妙な光景に、エルサレムの守備兵は当惑し嘲笑った。行進はオリーブ山で止まり、隠者ピエール、アルヌール、レーモン・ダジールらによる説教が行われた。

最後の攻撃

攻城塔の十字軍と城壁の守備兵の戦い

攻城戦の間、十字軍によって城壁に対する攻撃が何度となく行われたが、すべて撃退されていた。グリエルモ・エンブリアコ(Guglielmo Embriaco)率いるジェノヴァ共和国の部隊は、ヤッファで乗ってきた船を解体し、その木材で攻城兵器を作り上げた。攻城塔は城壁に近づき何度も攻撃を加えたが、イフティハール・アッ=ダウラ率いる守備隊はギリシャ火(石油硫黄を混合したもの)を攻城塔に浴びせかけ、攻城塔やその上の兵士を炎上させた[2]7月14日の夜にはジェノヴァ軍の攻城塔が城壁に近づき、守備兵を驚かせて注意を引いた。翌7月15日の朝、守備隊が南側の城壁で攻城塔を焼き払っている頃、イフティハール・アッ=ダウラのもとに、もう一つの攻城塔によって北から市内に侵入されたという伝令が届いた[3]。ゴドフロワの率いる攻城塔が、エルサレム市北東角の城門近くに接近して兵士を城壁に立たせることに成功したのであった。『ゲスタ・フランコルム』によれば、フランドルトゥルネーの騎士レタルデ(Lethalde)とエンゲルベルト(Engelbert)の兄弟が城内一番乗りを果たしたという。さらにゴドフロワ、その兄弟のブローニュ伯ウスタシュ、タンクレードらが部下とともに城内に突入した。レーモンの率いる攻城塔は濠に足場を取られて進めなかったが、十字軍が市内北部から次々侵入しているという事態に、守備隊はレーモンに降伏して門を開けた。イフティハール・アッ=ダウラら残された守備兵と市民は、市の西の要塞「ダビデの塔」に立て篭もって戦い続けたが、レーモンから降伏すれば助命すると勧告を受けた。彼らは約束が破られるのではないかといぶかりながらもこれを受け入れ、結局約束通り無事にアスカロンへと脱出することを許された[4]。しかしその頃、すでに市内では市民に対する殺戮が始まっていた。


  1. ^ マアルーフ、p104
  2. ^ マアルーフ、p106
  3. ^ マアルーフ、p106-107
  4. ^ マアルーフ、p107-108
  5. ^ この点を最初に指摘したのは、John and Laurita Hill である。"The Jerusalem Massacre of July 1099 in the Western Historiography of the Crusades." in The Crusades ( Vol. 3). ed. Benjamin Z. Kedar and Jonathan S.C. Riley-Smith. Ashgate Publishing Limited, 2004 (ISBN 075464099X), p. 65
  6. ^ Fulcher of Chartres, "The Siege of the City of Jerusalem", Gesta Francorum Jerusalem Expugnantium.
  7. ^ Medieval Sourcebook: Gesta Francorum
  8. ^ Medieval Sourcebook: Gesta Francorum
  9. ^ Medieval Sourcebook: Raymond of Aguilers
  10. ^ Crusaders, Greeks, and Muslims by Sanderson Beck
  11. ^ Edward Peters, The First Crusade,2nd. edition, University of Pennsylvania, 1998, p.265.
  12. ^ Hamilton Gibb The Damascus Chronicle of the Crusades: Extracted and Translated from the Chronicle of Ibn Al-Qalanisi. Dover Publications, 2003 (ISBN 0486425193)
  13. ^ マアルーフ、p108
  14. ^ Rausch, David. Legacy of Hatred: Why Christians Must Not Forget the Holocaust. Baker Pub Group, 1990 (ISBN 0801077583)
  15. ^ Edward Peters, ed. The First Crusade. 2nd ed. University of Pennsylvania, 1998, p. 264-272.
  16. ^ マアルーフ、p109-110
  17. ^ "The First and Second Crusades from an Anonymous Syriac Chronicle," trans. A.S. Tritton. Journal of the Royal Asiatic Society, 1933, p. 73.
  18. ^ Gesta Francorum. Bk. 10.39, ed. R. Hill. London, 1962, p. 94.
  19. ^ Book II, 3
  20. ^ マアルーフ、p111-117


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