エッシェルブロン エッシェルブロンの概要

エッシェルブロン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/29 00:16 UTC 版)

紋章 地図
(郡の位置)
基本情報
連邦州: バーデン=ヴュルテンベルク州
行政管区: カールスルーエ行政管区
郡: ライン=ネッカー郡
市町村連合体: エルゼンツタール自治体行政連合
緯度経度: 北緯49度19分11秒 東経08度51分59秒 / 北緯49.31972度 東経8.86639度 / 49.31972; 8.86639座標: 北緯49度19分11秒 東経08度51分59秒 / 北緯49.31972度 東経8.86639度 / 49.31972; 8.86639
標高: 海抜 156 m
面積: 8.23 km2
人口:
人口密度: 329 人/km2
郵便番号: 74927
市外局番: 06226
ナンバープレート: HD
自治体コード:

08 2 26 020

行政庁舎の住所: Bahnhofstraße 1
74927 Eschelbronn
ウェブサイト: www.eschelbronn.de
首長: マルコ・ジージング (Marco Siesing)
郡内の位置
地図

エッシェルブロン (ドイツ語: Eschelbronn) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ライン=ネッカー郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)。この地域は、家具製造や販売の企業が多く、古くから家具職人の町として知られている。

地理

位置

エッシェルブロンは、ネッカータール=オーデンヴァルト自然公園内クライヒガウ北部の標高150mから265mに位置する。ハイデルベルクの南東約5kmにあたり、面積は823.54haである。

地質と環境

最高地点はガルゲンベルクで、海抜264.9mである。町の中心部と新興住宅地の間をシュヴァルツバッハ川が流れている。エッシェルブロンの北東に、1977年以降閉鎖されたカレンベルク採石場が設けられていた。

1971年から1975年の採掘により、シュロスゼーという池ができあがり、エッシェルブロン・スポーツフィッシング協会が設立された。この協会は、シュロスゼーの他にもエプフェンバッハ川やカレンベルクゼーの釣魚権を有しており、また周辺水域の保護活動も行っている。

キルヒガウ北部で最初の自然・環境保護組織は1983年に設立された Bund für Umwelt und Naturschutz Deutschland(ドイツ環境および自然保護連盟)である。1984年に、そのエッシェルブロン地域グループが発足した。このグループはエッシェルブロンの農業問題とカレンベルクの保護運動に特化した活動を行っている。現在、こうした問題は、Bürgerinitiative für Umweltschutz Kultur- und Heimatpflege が取り扱っている。

カレンベルク採石場

カレンベルク採石場跡

採石場の北東部はエプフェンバッハ川に接する。鉄道建設のために1861年に初めて石材が切り出された。1891年に石材はマンハイムセメント業者に運ばれるようになり、鉄道建設・保守のバラストとして用いられた。石材採掘は1977年に停止され、広さ9.79ha、最も深いところで深さ30mの穴がカレンベルク湖として残された。ここに魚が放流された。ここには、湿地性および乾燥性のビオトープが保存されており、自然風致地区、後には自然保護区に指定された。町は、この土地を1984年に50万ドイツマルクで買い取った。この購入によって、バーデン=ヴュルテンベルク自然保護基金から12万ドイツマルク、ネッカータール=オーデンヴァルト自然公園から8万ドイツマルクの助成金が拠出され、南西ドイツ最大のキバラスズガエル棲息地が保護された。それ以前の所有者の採石場再開発計画はモトクロス場の建設であり、この棲息地は危機に瀕していたのであった。

隣接する市町村

エッシェルブロンに隣接する市町村は北から時計回りに、シュペヒバッハナイデンシュタインヴァイプシュタットツーツェンハウゼンメッケスハイムである。

歴史

カールスルーエのルッツ監督下で1971年から1975年に行われた発掘で、カロリング時代のものと思われる農業入植地跡や杭上家屋の遺構が発見されている。

レーエン領主フォルクリヒの贈与証明書

初めて文献上に記録されたのは、ロルシュ修道院に保存されている788年から789年のレーエン領主フォルクリヒが妻のレギスフィンデが亡くなった直後に14ターゲヴェルク(47,726m2、ターゲヴェルクは1日に耕作できる広さを基準とする面積の単位)の土地を寄進した贈与証明書である。

1251年には領主のエッシェルブルン家が初めて記録されている。この人物はコンラート・フォン・デュレンの従士で、立会人として記録されている。現在の城址公園に木造の領主館が築かれ、1267年に木造の水城に、1375年に石造の城に拡充された。

13世紀の終わり頃、1290年前後にこの村はシュパイアー司教の所領となった。1320年または1325年からは城主がレーエン主となった。これ以後19世紀末まで領主権や所有権は、下級貴族の間で何度も貸し出され、分割や相続争いが何度も起きている。1526年に領主のヨアヒム・フォン・ゼッケンドルフによりルター派の信仰が持ち込まれた。この頃に、現在の場所に教会が初めて建造された。1555年、エッシェルブロンをクリストフ・フォン・ゼッケンドルフが相続した。1571年にクリストフは子どもを遺さずに亡くなり、このレーエンの正統な相続者がいなくなった。しかし、祖父の取り決めに基づき、シュパイアー司教本部への返納はなされず、クリストフ・フォンゼッケンドルフの3人の娘の相続者にもたらされた。エルツ家とシュタイナハ家は所領と統治権を違いに分配し合い、もう一派の異論にもかかわらず、およそ100年間、水城で共存し続けた。

1676年にこうした体制での相続者がいなくなり、相続争いが起こり、12年後にフェルス家が勝利した。しかしこの家門も1734年に断絶し、再び相続争いの末エーバーハルト・ディートリヒ・カプラー・フォン・エートハイムがこれを獲得したものの、8年後には統治権をカール・フィリップ・フォン・フェンニンゲンに売却した。その後37年間の彼の統治期間にわたって、この村の経営・資産状況は几帳面に記録が遺されている。後に「城」と呼ばれるようになる大農園を建設するため、カール・フィリップ・フォン・フェンニンゲンは、それまでに較べ過酷な夫役を課したため、住民の暴動を招いた。この暴動は、結局1763年に4人の暴動指導者がマンハイムの監獄に送られ、12人の竜騎兵と村の下級官吏が監視にあたった。カール・フィリップ・フォン・フェンニンゲンは、1797年8月27日に亡くなった。

1802年2月25日の帝国代表者会議主要決議によりフェンニンゲン家およびシュパイアー司教区はその独立性を失った。1803年エッシェルブロンは、バーデンに割り振られ、バーデン大公領となった。1807年からはオーバーアムト・ヴァイプシュタットに属し、1813年からはベツィルクスアムト・ジンスハイムに編入された。[2]

1862年バーデン・オーデンヴァルト鉄道の開通によって交通路が拡充されたことで、輸送効率が改良され、人口も871人(1852年)から1,024人(1873年)と増加した。エッシェルブロンが属すジンスハイム郡は1972年12月31日まで存続したが、その後ライン=ネッカー郡に移行した。

村の名前

789年から時代とともに、8つの異なる名前が記録されている。元々の名前である Ascenbrunnenは、入植地の中央にあった井戸に由来する。

エッシェルブロン遠望
  • 789年: Ascenbrunnen
  • 1338年: Esschelbrunne
  • 1349年: Eschelpruenne
  • 1388年: Eschelbronnen
  • 1496年: Eschelbron
  • 1539年: Eschelbrunn
  • 1550年: Eschelpron
  • 18世紀以降: Eschelbronn

町域の拡大

エッシェルブロンは、元々、現在のシュロス広場付近にあたる最初の入植の西および北西側に造られた。マルクト広場が集落の中心をなしていた。戦後のドイツ東部からの放逐民などによる人口増加や、小家族用住宅需要の高まりに対する方策の一環として、1959年にランゲ・エッカー地区やミューレンヴェグ地区が造成された。1962年にはナイデンシュタイナー通り、ノイガッセ、シュロス通り、およびヴィーゼン通りが上水道とともに整備され、1966年にはランゲ・エッカー/エルプフェル地区が造成された。1973年には町長のディーター・ヤニッツァの指揮下でスポーツ・文化ホールが造られた。1974年には新たな住宅地ドゥルシュトビュッテン地区と、上水設備の拡充のためヴィーゼンベルクに高架水槽タンクが設けられた。1976年には産業道路が延長され、1988年までに隣接する森が伐採された。1977年には南東部にオッペンロッホ/ギュールン地区が拓かれた。さらに1980年にはランゲ・エッカー/シュライフィグライン地区が、1988年にゼーライン住宅地がこれに続いた。

洪水

1994年の洪水時の水位票

エルゼンツ川やシュヴァルツバッハ川の水位が上がり、大規模な洪水が何度もエッシェルブロンを襲っている。たとえば、1862年、1891年、1921年、1952年などである。1956年3月の連邦議会選挙の日に起こった洪水については、ドイツ国内のみならず国外でも、手作りの筏に娘を乗せて漕いで投票に向かう男性が紹介された。

1994年6月26日から27日にかけての夜に激しい豪雨が降り、周辺河川の水位が上がり、産業道路からマルクト広場を経由してシュロスヴィーゼンシューレにいたる町の中心部が水に浸かった。3時間ほどの間に水位は、最高1.80mにまで達した。数時間のうちに水位は完全に元に戻ったが、甚大な物的被害と大量の泥が残された。

これに先立つ1993年12月にも大規模な洪水が起こっており、さらにこの後2002年3月にも起こっている。この立て続けに起こった百年に一度クラスの洪水による被害の合計は30万ドイツマルクに及んだ。こうした洪水に適切な予防措置を講じるべく、1997年4月25日にヴァイプシュタットに被害を受けた市町村が集まり、エルゼンツ川=シュヴァルツバッハ川流域洪水対策同盟が結成され、いくつかの遊水地が設けられている。 [3]

1993年12月 1994年6月 2002年3月
降水量
期間 3 日 3 時間 3 日
降水量 約 140 mm 250 mm 未満 約 90 mm
河川流量
シュヴァルツバッハ川のエッシェルブロン水位計 83.2 m³/s 138 m³/s 42 m³/s
エルゼンツ川のメッケスハイム水位計 21 m³/s 24 m³/s 36.4 m³/s



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