エッシェルブロン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/29 00:16 UTC 版)
住民
約2,600人の住民が好んで『指物師』を自称するほどに家具製造が盛んである。『橋延ばし』という嘲笑的な別称は、エッシェルブロンの住民がシュヴァルツバッハ川に架けた木製の橋が短かったためこれを延ばそうとして両側から牛に引っ張らせたという民話に由来する。[4]
宗教
プロテスタント教会の他、ヴァイプシュタット首席司祭区に属すカトリック教会や、1910年以降には新使徒教会の組織も存在する。
ローマ人によってこの地域はキリスト教化されたのだが、その後ゲルマン民族の侵出とともに大部分が衰退した。1526年には領主のヨアヒム・フォン・ゼッケンドルフによってルター派の信仰が定着した。1946年に多くのカトリック系住民が流入したが、現在もなおプロテスタントが主流である。教会税は1938年4月1日に正式に導入された。カトリックのミサは1946年から1958年までプロテスタント教会で執り行われていた。カトリック教会の建設は1957年5月19日に開始され、1958年8月31日に完成した。
1925年 - 1985年の宗派別信者数
プロテスタント | カトリック | その他 | |
---|---|---|---|
1925年 | 1,039 | 17 | 79 |
1933年 | 1,147 | 16 | 54 |
1946年 | 1,280 | 674 | 63 |
1985年 | 1,380 | 712 | 183 |
行政
議会
エッシェルブロンの議会は、12議席からなる。
首長
第二次世界大戦後の首長は以下の通り。
- 1945年: ゲオルク・アームレーダー(アメリカ占領軍により指名されたカールスルーエの言語学者)
- 1945年: アダム・ヴィンディッシュ
- 1945年 - 1948年: パウル・ショッホ
- 1948年 - 1954年: カール・フェルヒ
- 1954年3月1日 - 1970年6月30日: フィリップ・ディンケル
- 1970年8月1日 - 1991年9月15日: ディーター・ヤニッツァ
- 1991年11月1日 - 1999年3月31日: イュルゲン・グレーテル
- 1999年6月17日 - 2015年: フローリアン・バルダウフ
- 2015年 - : マルコ・ジージング
紋章
20世紀初めまで、エッシェルブロンに紋章はなく、単にEBのイニシャルの印章を用いていた。現在の紋章はバーデンのカールスルーエ文書局の紋章創設の枠組みに従って1901年に設けられた。紋章は左右二分割で向かって左にプファルツ選帝侯領メッケスハイム管区に因む青 - 白の菱形模様、向かって右はフェンニンゲン家に因む銀地に赤いユリ型頭の杖を2本斜めに組み合わせたデザインである。
町の旗は上下に分割で上部が白、下部が青である。上部の白地の左側に町の紋章が描かれている。この旗は、1954年11月13日から使われている。
エプフェンバッハ方面へ向かう州道549号線の橋の傍らにSiedlergemeinschaft Eschelbronnにより花でこの紋章の配色を模した植え込みが造られている。
経済
農業
農業は、本来この町の主な収入源であった。農家当たりの耕地面積は細分化されてゆき、小さな土地しか所有しなくなった農家は副業で生計を立てるようになっていった。
農家当たりの耕地面積の変化
1873年 | 1907年 | 1913年 | |
---|---|---|---|
2 ha 未満 | 68 | 120 | 150 |
2 - 10 ha | 79 | 85 | 73 |
10 - 20 ha | 14 | 2 | 1 |
合計 | 161 | 207 | 224 |
一時期ヤギの飼育が奨励された時期があり、餌の供給が確保されたこともあって盛んになったが、第二次世界大戦後に徐々に衰退していった。
リンネル織り
元々、農家の副業として始まったリンネル織りは、徐々に発展を遂げ、18世紀から19世紀後半には主要な経済活動の一つになった。1860年のプロテスタント教会の名簿には35名の織工が記名されている。19世紀中頃には、共同の機織り機があり土地の者は誰でもこれを用いて織物を造ることが許されていた。毎年春になると都市部の商人が町に来て織物を買い占め、小売商に卸していた。工業化により大規模な卸業者が衰退した後は、織工自らが、訪問販売に行商して歩くこともあった。その後工業化が進み、安価な綿が輸入されるようになると、この町の手工業によるリンネル織りは、重要さを喪失していった。20世紀初めには9人の、そして1909年にはわずかに2人の織工が残るだけとなった。[5]
家具造り
教会の記録によれば、18世紀中頃から19世紀初めにかけては、アンドレアス・ヴォルフ(1748年 - 1802年)とヨハン・アダム・ブッチュバッヒャー(1761年 - 1832年)の2人が家具職人として記録されているのみである。家具職人のマイスターとしては、ヨハン・ゲオルク・ヴォルフ(1788年生まれ)とアンドレアス・シェーン(1782年 - 1861年)が最も古い記録である。1870年代になると2人の家具職人、ゲオルク・アダム・カイザーとヨハネス・ライマンが遍歴修行の成果をこの町に持ち帰った。カイザーは、ノイガッセ69番の父の工房でその能力を発揮した。ライマンは、オーバーガッセ156番に自分の工房を開いた。19世紀末には、徐々に家具職人が増え、この町は家具の町として周辺地域に知られるようになった。1925年、エッシェルブロンには1,135人の家具職人、54軒の家具工房があった[6]。当時は周辺地域からの注文に基づく特注品製造であったが、世紀の変わり目頃に、まずは洋服箪笥から既製品のシリーズが始まった。1920年代には特に寝室家具シリーズに力が注がれた。1980年代のガイス社 (Geiß) では1日約20室分の寝室用家具が生産されていた。その後数は減ったものの、現在でもこの町にはいくつかの家具製造業者、家具工房、家具専門店がある。旧学校は家具博物館として使われている。
地元企業
家具販売のAmend、Geiß、Streib、家具製造のRüdiger Vogel がエッシェルブロンのよく知られた企業である。1954年からはピアノ製造業者のベヒシュタインの工場が稼働している。
- ^ Statistisches Landesamt Baden-Württemberg – Bevölkerung nach Nationalität und Geschlecht am 31. Dezember 2021 (CSV-Datei)
- ^ エッシェルブロンの歴史
- ^ エルゼンツ川=シュヴァルツバッハ川流域洪水対策同盟
- ^ 『橋延ばし』のニックネームの由来
- ^ リンネル織りの町エッシェルブロン
- ^ 家具の町への道程
- ^ Sellemols Theaterleit'
固有名詞の分類
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