イアン・ブラウン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/07 17:02 UTC 版)
Ian Brown | |
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基本情報 | |
出生名 | Ian George Brown |
別名 | キング・モンキー |
生誕 |
1963年2月20日(60歳) ウォリントン |
出身地 | マンチェスター |
ジャンル |
マッドチェスター オルタナティブ・ロック |
職業 | シンガーソングライター |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | 1984年 - 1996年, 1998年 - 現在 |
レーベル |
ポリドール ユニバーサル・ミュージック |
共同作業者 | ザ・ストーン・ローゼズ ノエル・ギャラガー |
公式サイト | http://www.ianbrown.co.uk/ |
出生
- 1963年2月20日にイギリス、チェシャー州のウォリントンで職人のジョージ、電話受付嬢のジーンのブラウン夫妻の3人兄妹の長男として生まれる(弟にデヴィット、妹にシャロンがいる)。
- イアンはインタビューで家族について、父親は「優しく」母親は「はっきりものを言う女性」「生まれ育ったのはウォリントン。ひどい町だったけど楽しかったよ。家は貧乏で地味だった。親父は、まあ、俺と似てるかな」と語っている。
- 1969年に一家でマンチェスターの中心から数マイル離れたティンパーリーに引っ越す。
- そのころの生活を「ウォリントンに住んでた時は庭というか、ただの裏庭しかなかったけど、ティンパーリーの家は芝生付きの裏庭があったんだ。親父は煙草を吸わなかったし、かと言って大酒飲みでもなかったから、ありがたかった。家は線路沿いにあった。マンチェスターの中心地までは6マイルぐらいで、電車だと20分くらいで行けるんだ。だから7歳のころから通ってたよ」
音楽と格闘技との出会い
- ティンパーリーに引っ越した後音楽の影響を受けるようになったと言い「ばあちゃんから7インチのシングル盤を山ほどもらったんだ。トム・ジョーンズの『よくあることさ』、ビートルズの『ヘルプ!』と『アイ・フィール・ファイン』それからストーンズの『アンダー・マイ・サム』と『一人ぼっちの世界』、スプリームスの『ザ・ハプニング』と『ラブ・チャイルド』もあったな。あれが初めて手にしたレコードで、今も持ってるよ。俺は7,8歳で、ダンセット社製のポータブルプレイヤーを持ってたんだ。」
「子供の頃は、北部では誰でもビートルズに夢中で、俺も同じだった。次にT・レックスの『メタル・グルー』を聴いたんだけど、あれが地元のマーケットで買った初めてのシングルだったな。9歳になると、ギャリ―・グリッターが好きになった。『ロックンロール・パート1』は素晴らしい曲だよ。今でもスレイドは偉大なバンドだと思ってるし、ノディ・ホルダーはイギリスが生んだ最高のシンガーの一人だよ。ジョン・レノンみたいな歌声で、荒々しく、おそろしく力いっぱい歌うんだ」「アリス・クーパーも好きだった。1976年のクリスマスに彼の『ビリオン・ダラー・ベイビーズ』をもらって聴くまでは、実はアルバムとは何なのかもよく分かってなかった。それまではシングルがすべてだったんだよ。お袋は『サウス・パシフィック』のサントラ盤とペリー・コモのアルバムを持ってた。俺がアリス・クーパーの『スクールズ・アウト』に夢中になったのは12歳の時。それからセックス・ピストルズが起こしたビル・グランディ事件が新聞に載って、パンクが好きになった。アルバムも買ったよ。1977年3月にはピカデリー・ラジオで流れたアドヴァーツを聴いてシングルの『ワンコード・ワンダーズ』を買った。ピカデリー・ラジオはクラッシュの『キャリア・オポチュニティーズ』と『ジェニー・ジョーンズ』も流してたな。ラジオだと曲の途中までしか流れないけど、それをカセットテープに録ってね。ちょうどクラッシュがアルバムをリリースする時だったから、ラジオで曲を宣伝してたんだ」と語っている。
- また格闘技にものめりこみ始め「子供の頃のアイドルと言えば、モハメド・アリに尽きる。1974年のジョージ・フォアマン戦は今でもはっきり覚えてるし、本も全部買ったよ。部屋の壁はアリの写真で埋め尽くされてた。まあ、その後、ピストルズの写真に代わるんだけど」。学校が終わると自転車で4マイル離れた空手の道場に通うようになり、曰く「空手は本当に好きだった。11の時に初めて18歳まで続けたよ。沖縄県警が採用する武人会を選んだんだけど、まあ、病みつきになったね。毎日練習して、14の時には教えていた。毎週土曜日は稽古をつけるんだ。茶帯になって、黒帯になる数週間前にブルース・リーの本を読んでたら、『俺の段位を決めるこの人たちはいったい誰なんだ?』って文があって、この言葉には考えさせられたよ。子供の頃、彼は学校で一番賢くて、それはそれですごかったけど、心に決めてた事があった。基礎から学ぶんじゃなくて、空手も言われたとおりにはしなかったんだ。俺自身にもそういう考え方に陥った事があって、これはどこかパンクに通じてる気がする。結局、彼は白帯で終わったんだけど、そうした姿勢を彼から学んでたんだと思う。それで俺も最終的には道場を去ったんだから。後悔してるよ、馬鹿な事をしたって。だけど1978年の当時はパンクロックに夢中だったから。黒帯になれてたら、どんなにすごかっただろう。毎晩のように練習してたし、放課後も一対一で教えてもらってたし」、
ジョン・スクワイアとの出会い
13歳の頃にジョン・スクワイアとつるみ始めたと言う。「近所の空き地に砂場があって、4,5歳くらいの時に、そこで会ってたかもしれないんだ。ジョンは覚えてて、俺は裸になって砂場で遊んでたらしいよ。」「つるみ始めたのは13か14の頃。1977年は、あいつが学校でひどい目に遭ってて、俺が助け出してやったんだ。同じ通りに住んでたのは知ってたけど、まだつるんでなかった。その夜、あいつが何だか可哀想に思えて、レコードを何枚か持ち込んだんだ。俺は『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』を買ったばかりの時で、すごく興奮してて、ジョンの家まで行ったのも、きっとその頃じゃないかな。あの時はクラッシュのファーストLPとアドヴァーツの『ワン・コード・ワンダーズ』を持って、ドアをノックしたんだ。あいつが持ってたのは、ビートルズの『ライブ・アット・ザ・ハリウッド・ボール』だった。まともなLPは持ってなくて、コンピレーションアルバムしかなかった。サーファーが一人で写ったジャケットのビーチ・ボーイズの『ゴールデン・グレイツ』とかで、だから俺のレコードをかけたら、すぐに飛びついてきたよ。特にクラッシュが好みになったみたいで、あいつも同じアルバムを買ったんだ。ピストルズの『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』も手に入れたね。初めて会った頃のジョンはひたすら美術に熱中してた。ゲームとかは一切やらなくてね。学校の制服にもクラッシュ風にステンシルで文字をあしらってて、俺のシャツにもしてもらったよ。外に出るときはタイトなパンツにサスペンダーそれとスポーツシューズ、それが俺たちの格好だった。それと、安全ピンを刺した黒のジャケットを着るんだ。シャツのロゴは『ユー・ジェネレーション』で、ジェネレーションXとかクラッシュがしたみたいにスプレーで書いたんだ。こんな感じで、まずは目にしたものをまねしながら、次第に自分たち独自のものにしていったんだよ。」
人物
- イアンとジョン
「砂場の出会い」の幼馴染、イアン・ブラウンとジョン・スクワイア。しかしローゼズ末期から関係が疎遠になり、解散後しばらくは互いにメディアを通し批判合戦を行うほどの関係になっていた[1]。しかし最近になってジョンがイアンにデモテープを送り、それを聴いたイアンから称賛のコメントが出るなど関係は改善された模様[2]。
- ファーストアルバム
ローゼズ末期のメンバーであるアジズ・イブラヒム、ロビー・マディックス、ナイジェル・イッピンソンやオリジナル・メンバーのマニとレニ(ドラムループのみ提供)が参加して作られたアルバム。ローゼズのためにイアンが書き、ストーン・ローゼズ最後のステージで披露された"Ice Cold Cube"も収録[3]。関係が疎遠になったジョンはもちろん不参加。イアンとマニは2004年のアンクルのシングル"Reign"でも共演している。
なおイアンは世界最高のバンドはストーン・ローゼズであると公言してはばからない。
- ^ イアン・ブラウン、「ローゼズを解散したのはあいつ」
- ^ イアン・ブラウン、ジョン・スクワイアを称賛
- ^ 『アンフィニッシュト・モンキー・ビジネス』解説文より
- ^ Ian Brown Biography
- ^ 『ゴールデン・グレイツ』解説文より
- ^ イアン・ブラウン、観客とケンカになり逮捕
- ^ イアン・ブラウン、ドメスティック・バイオレンスの容疑で逮捕
- 1 イアン・ブラウンとは
- 2 イアン・ブラウンの概要
- 3 トピック
- 4 出典・脚注
固有名詞の分類
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