アクロイド殺し 本作のトリック

アクロイド殺し

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 23:09 UTC 版)

本作のトリック

トリックの発想の起源と画期性

本作で使われた「語り手=犯人」のトリックは、クリスティが初めて用いたものではない。ただしクリスティ自身は、義兄ジェームズ・ワッツの「ちかごろの探偵小説は、だれでも犯人にしてしまうんだな。探偵本人が犯人というのもある。……もしワトソン医師みたいな人物が犯人という小説があったらどうか。」という、このごろの探偵小説を評した彼の言葉を独創的なものと評価した[1][2]。さらに、インド総督ルイス・マウントバッテン卿からそれを発展させたアイディアを手紙で提示されたことを元にしてプロットを考案した[3]

この作品が発表された後、クリスティ自身は「このアイディアは、一度きりしか使えない独創的なもので(あとからこれを模倣した作品が多く出たが)、おそらくたいていの読者を驚かせるものである」と自賛している[4]。クリスティは、おそらく他の先行作品に気づかなかった[5]。ただし、自身には2人の語り手のうちの1人が犯人である『茶色の服の男』という先行作品がある。

この「記述者=犯人」トリックの先例は、1885年に出版されたロシアの作家アントン・チェーホフの『狩場の悲劇』、1917年に出版されたスウェーデンの作家S.A.ドゥーゼの4番目の作品である『スミルノ博士の日記』である。さらにノルウェーのStein Riverton(スヴェン・エルヴェスタ英語版のペンネーム)による同じアイディアの作品 "Jernvognen---Kriminalroman" がある[5][6]。ただし、これらの作品は読者に対しては「記述者=犯人」であることを隠しておらず、内容的には倒叙物に近い。

1921年に谷崎潤一郎が発表した『私』もこのトリックを使っており、その際に芥川龍之介から、イタリアにああいうものがあると言われたとのちに書いているが、どの作品かは特定されていない[7]

トリックの位置付け

当時の推理小説は、エドガー・アラン・ポーデュパン作品やコナン・ドイルシャーロック・ホームズ・シリーズに代表されるように、「主人公である探偵役の活躍を別の登場人物が書いたもの」という形式が主流であった。過去のポアロ物も、ヘイスティングズ大尉が記述者という形を取っていた。

『アクロイド殺し』はヘイスティングズ大尉に代わってシェパード医師の手記という形式の小説であったが、そのシェパード医師自らが犯人であること、またそのことをポアロだけに対してではなく読者に対しても隠して騙すという、設定を逆手に取ったプロット、トリックを用いた[注釈 3]。語り手のシェパード医師は「嘘は書かなかった」と作中で弁明しているとおり、嘘は書かなかったものの、自らが犯した殺人の決定的な描写をわざと曖昧に書いている。

これが今日に言う「叙述トリック」もしくは「信頼できない語り手」であったために、フェア・アンフェア論争を引き起こすこととなった。さらに同年にはクリスティの失踪事件も起き、話題が大きくなった。しかし、この作品によってクリスティはベストセラー作家の仲間入りを果たし、彼女の知名度を大きく高める結果となった。先述のように現在でも代表作の一つに挙げられる。

フェア・アンフェア論争

このトリックがフェア・プレイでないとする側の代表は、ヴァン・ダインである。彼は「読者に対し仕掛けられている(この)トリックは、推理小説の作者の合法的な手法とは言いがたい。それゆえ、作中のポアロ探偵の捜査ぶりにはときおり秀でたところがあるのだが、その効果も結末によってすべて帳消しにされている。」と述べ、本作品を全然推奨しがたいものとして葬っている[8]。そして、ヴァン・ダインはこの後、1928年に「ヴァン・ダインの二十則」を発表し、その第2項にて叙述トリックを否定している[注釈 4]

フェア・プレイであるとする論者の代表は、ドロシー・L・セイヤーズである。セイヤーズは、「このような(ヴァン・ダインの)見解は、作者のためうまくトリックにかけられたことを残念がって漏らすごくあたりまえの意見にすぎず、必要なデータはすべて提供されているのだから、読者たるもの鋭くさえあれば犯人を推定し得るはずであって、これ以上のことを作者に要求することはできない。つまり絶えず機知を働かせて、完全なる探偵のように、あらゆる人物を疑ってかかるのが読者の仕事だろう。」とクリスティを全面的に支持している[9]

エラリー・クイーンも支持者の一人である[要出典]。「探偵作家論」を著したトムソンも「作中ポワロ探偵は『各人各様の解釈があるだけのことで、私はなにひとつ事実をかくしてはいない』と述べており、記述者シェパード医師も『ポワロ自身の発見したものをことごとく私に見せてくれただけ』と記しているし、ともにヴァン・ダインの所説と矛盾している」と肯定している。

レイモンド・チャンドラージュリアン・シモンズなど、本格推理小説に対しシビアな意見を持つ論者でも、評価している者がいる[要出典]

日本ではアンフェアだという声はかなり高かったらしい[10]。雑誌『宝石』誌上の江戸川乱歩小林秀雄との1957年の対談[注釈 5]において、小林は次のように批判している。

「いや、トリックとはいえないね。読者にサギをはたらいているよ。自分で殺しているんだからね。勿論嘘は書かんというだろうが、秘密は書かんわけだ。これは一番たちの悪いウソつきだ。それよりも、手記を書くと言う理由が全然わからない。でたらめも極まっているな。あそこまで行っては探偵小説の堕落だな。」「あの文章は当然第三者が書いていると思って読むからね。あれで怒らなかったらよほど常識がない人だね(笑)。」

ただ、対談の相手である江戸川乱歩はフェア・プレイ派である。横溝正史もまた小林信彦との対談で、対談のある流れのなかで「アンフェアーという気がしますしね」とは口にしているものの、エッセイ「クリスチー礼讃」[注釈 6]で、「フェアーであろうがアンフェアーであろうが面白いのだから仕方がない」と賛辞を贈っており、自作の『蝶々殺人事件』などでこのトリックを借用している。

フェア・アンフェア論争の総括をしている瀬戸川猛資は、ミステリ界では「トリックそのものには先例があるものの、仕掛けの大きさにおいて比類のない作品である。犯人は嘘を書いているわけではないのだから決してアンフェアではない。こういう意表をついた大トリックに欺されることにこそ本格ミステリの醍醐味があるのであって、それに文句をつけるのはミステリの本当のおもしろさが理解できない人ではないか――というような意見が大勢をしめ、アンフェア説は完全に駆逐されてしまった。」と述べた上で、この作品には「客観性」がまったくないとして、アンフェア説に立っている[11]


一般書
出版年 タイトル 出版社 文庫名等 訳者 巻末 ページ数 ISBN カバーデザイン 備考
1929年 アクロイド殺し 平凡社 世界探偵小説全集 第18巻 松本恵子 425 [注(一般書) 1]
1939年6月16日 限りなき魅惑 紫文閣 赤木春之 336
1950年 アクロイド殺し 雄鶏社 おんどり・みすてりい 松本恵子 341
1955年
10月31日
アクロイド殺し 早川書房 世界探偵小説全集 No.224
(現「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」)
松本恵子 247
1956年1月 アクロイドを殺したのは誰か? 大日本雄辯會講談社 クリスチー探偵小説集 / ポワロ探偵シリーズ3 松本恵子 269
1956年 アクロイド殺害事件 東京創元社 世界探偵小説全集 14 大久保康雄 監修:江戸川乱歩ほか 282
1957年 アクロイド殺人事件 角川書店 角川文庫
赤502-1
松本恵子
[注(一般書) 2]
訳者あとがき 332 上原徹
1958年8月
第57刷改版1987年
アクロイド殺人事件 新潮社 新潮文庫
135A,
ク-3-1
中村能三 解説 中村能三
[注(一般書) 3]
376
改版388
鈴木邦治、野中昇
1959年
5月20日
アクロイド殺害事件 東京創元社 創元推理文庫
105-1
大久保康雄 426
1960年 アクロイド殺害事件・
ABC殺人事件
東京創元社 世界名作推理小説大系 9 大久保康雄
[注(一般書) 4]
中島河太郎 512
1960年8月 アクロイド殺害事件・
うぐいす荘事件・
皇帝の嗅ぎ煙草入れ
中央公論社 世界推理名作全集 6
クリスティー
カー
河野一郎
[注(一般書) 5]
中島河太郎 511
1962年7月 アクロイド殺害事件 中央公論社 世界推理小説名作選 河野一郎 中島河太郎 260
1962年 アクロイド殺害事件・
ABC殺人事件・
ポアロ捜査ノート
東都書房 世界推理小説大系
第13(クリスチー)
原百代
[注(一般書) 6]
解説:中島河太郎 302
1972年5月 アクロイド殺害事件 講談社 世界推理小説大系 5[注(一般書) 7] 原百代
[注(一般書) 8]
365
1974年
11月15日
アクロイド殺害事件 講談社 講談社文庫BX 2-1 原百代 徳野雅仁 350
1979年
2月28日
アクロイド殺し 早川書房 ハヤカワ・ミステリ文庫
1-45
田村隆一 解説:田村隆一 353 真鍋博
1984年5月 エルキュル・ポアロ
[注(一般書) 9]
講談社 原百代 解説:「ポアロとクリスティーの横顔」数藤康雄
「アガサ・クリスティー著作リスト」各務三郎
493 4-06-203404-2
1998年10月 アクロイド殺害事件 集英社 集英社文庫
「乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10」シリーズ 6
雨沢泰 390 978-4087488340
2003年 アクロイド殺し 早川書房 クリスティー文庫3 羽田詩津子 解説:笠井潔 440 4-15-130003-1 Hayakawa
Design
2004年
3月26日
アクロイド殺害事件 [新版] 東京創元社 創元推理文庫M-ク-2-1 大久保康雄 426 978-4488105433 装画:ひらいたかこ
装幀:小倉敏夫
2004年10月 アクロイド殺害事件 嶋中書店 嶋中文庫
グレート・ミステリーズ 2
河野一郎 491 978-4861563119
脚注(一般書)
  1. ^ 「クラパムの料理女」「呪はれたる長男」「魔法の人」併録。
  2. ^ 現在、グーテンベルク21が電子書籍化している。
  3. ^ 改版時に「解説 海渡英祐」に差し替え。1981年に翻訳者の中村能三が亡くなっていたためその翻訳文の特徴について触れる。
  4. ^ 「ABC殺人事件」は堀田善衛訳。
  5. ^ 「皇帝の嗅ぎ煙草入れ」は中村能三訳。
  6. ^ 「ABC殺人事件」と「ポアロ捜査ノート」は堀内英子訳。
  7. ^ オリエント急行殺人事件」を併録。
  8. ^ 併録の「オリエント急行殺人事件」は久万嘉寿恵訳。
  9. ^ 数藤康雄=編、従来講談社文庫で発行されていたものの合本。「スタイルズ荘の怪事件」、「ゴルフ場殺人事件」、「アクロイド殺害事件」、「青列車の謎」、「オリエント急行殺人事件」、「ABC殺人事件」(アクロイドのみ原百代、それ以外は久万嘉寿恵の翻訳)を収録。
  1. ^ キャロラインは後のミス・マープルの原型であると、クリスティ自身が表明している。
  2. ^ メルローズ大佐は『チムニーズ館の秘密』と『七つの時計』、ハーリ・クィンものの短編『愛の探偵たち』にも登場する。
  3. ^ 日本では横溝正史の『蝶々殺人事件』『夜歩く』や高木彬光の『能面殺人事件』などで「事件の記述者=犯人」という形式が採用されている。
  4. ^ 第2項:作中の人物が仕掛けるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない。
  5. ^ 『江戸川乱歩全集22』に所収、講談社。
  6. ^ 『横溝正史読本』に所収、角川文庫
  7. ^ 同作者の作品では他に、19位に『そして誰もいなくなった』、83位に『死が最後にやってくる』が選出されている。
  8. ^ 同作者の作品では他に、10位に『そして誰もいなくなった』、19位に『検察側の証人』、41位に『オリエント急行の殺人』が選出されている。
  1. ^ Christie, Agatha (1977). An Autobiography. Collins. p.342, ISBN 0-00-216012-9
  2. ^ 茅野美ど里訳『アクロイド殺人事件』、解説、pp.463-464、偕成社、1998年9月、ISBN 4-03-652350-3
  3. ^ Thompson, Laura (2007). Agatha Christie, An English Mystery. Headline. p.500, ISBN 978-0-7553-1487-4
  4. ^ 大久保康雄訳『アクロイド殺害事件』、解説(中島河太郎による)、pp.424-425、東京創元社、1959年5月20日初版・2004年3月26日新版初版、ISBN 4-488-10543-2
  5. ^ a b 大久保訳『アクロイド殺害事件』、解説(中島)、p.425
  6. ^ Stein Riverton, Jernvognen---Kriminalroman Kristiania, Forlagt H. Aschehoug & Co(W. Nygaard), 1909
  7. ^ 谷崎潤一郎「春寒」『谷崎潤一郎全集』 第22巻(愛読愛蔵版)、中央公論社、1997年12月1日、271-286頁。ISBN 978-4124010626 
  8. ^ 大久保訳『アクロイド殺害事件』、解説(中島)、p.423
  9. ^ 大久保訳『アクロイド殺害事件』、解説(中島)、pp.423-424
  10. ^ 瀬戸川猛資 『夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波』 東京創元社 創元ライブラリ、1995年5月28日、p.207、ISBN 4-488-07028-0
  11. ^ 瀬戸川猛資 『夜明けの睡魔 海外ミステリの新しい波』 東京創元社 創元ライブラリ、1995年5月28日、pp.209-211、ISBN 4-488-07028-0
  12. ^ 1971年の投票は『ゴルフ場の殺人』(創元推理文庫、1976年)巻末解説を、1982年の投票は乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10 (6)『アクロイド殺害事件』(集英社文庫、1998年)巻末解説を、各参照。
  13. ^ RESULTS OF WORLD'S FAVORITE AGATHA CHRISTIE GLOBAL VOTE”. THE HOME OF AGATHA CHRISTIE. AGATHA CHRISTIE LIMITED (2015年12月22日). 2024年3月24日閲覧。
  14. ^ 黒井戸殺し - とれたてフジテレビ、フジテレビジョン、2018年2月15日閲覧。


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