基本条例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/02 09:46 UTC 版)
「コネチカット州の歴史」の記事における「基本条例」の解説
渓谷沿いの町々は戦争に臨んで共通の政府を創った。1639年、政府の資源と形態を文書で定めるときに前例のないような方法を採った。個人の権利を列挙し、自由人が政府の権威のための唯一の資源であるとした。この新しい体制で植民地は急速に人口を増やし拡張した。 1662年4月22日、コネチカット植民地は王室からの勅許取得に成功し、基本条例で創設された自治政府を認められた。大きな変化と言えば、その領域を南はロングアイランド・サウンド、西は太平洋と定められたことであり、この勅許はニューネーデルラントと競合することになった。 1638年以降、ニューヘイブン植民地は川沿いの独立した開拓地であったが、これについても勅許で別の問題が生じた。忌み嫌われたカトリック教徒のヨーク公が管轄するニューヨーク植民地の政府がすでにロングアイランドの植民地を確保していた。1665年1月までに、ニューヨークが折れて出て、ニューヘイブンから議会に代議員を送ってきた。 厳しく残酷なピクォート戦争以後、インディアンの脅威はしばらく無かった。フィリップ王戦争 (1675-1676)はコネチカットにとってまた新しい戦いであった。この戦争は主にマサチューセッツで起こったが、コネチカットは兵士と物資を送った。この結果コネチカットでは先住民の恐れがほとんど無くなってしまった。
※この「基本条例」の解説は、「コネチカット州の歴史」の解説の一部です。
「基本条例」を含む「コネチカット州の歴史」の記事については、「コネチカット州の歴史」の概要を参照ください。
- 基本条例のページへのリンク