USSS対モレロ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/05 13:48 UTC 版)
1899年、ブルックリンで偽札が出回った。1900年6月11日、USSSはモレロら7人を逮捕したが、証拠が揃わず放免した。1902年、移民街で再び偽札が出回った時、USSSはモレロ一家をターゲットに据えた。1902年12月、一家のメンバー、ジュゼッペ・ディプリモら3人を尾行し、懐から偽札を出したところを現行犯逮捕し、投獄することに成功した。前回より紙質が良く、より精巧なレプリカに仕上がっていた。1903年1月、モレロ他メンバー数人を紙幣偽造の容疑で逮捕したが、証言者がモレロの関与を否定し、無罪となった。 USSSは、1902年より個々のメンバーを常時監視対象とし、移民に変装した捜査官が、尾行や会話の盗み聞きを重ねた。またイタリア系捜査官が組織に潜入しようと試みたが、シチリア人でないと多分に怪しまれるため断念したという。沈黙の規律、警察の賄賂漬けなどにより容易に尻尾を掴ませなかった。 1909年、USSSはメンバーを尾行してニューヨーク郊外ハイランドでモレロが立ち上げ中だった新たな紙幣偽造工場を突き止め、メンバーを泳がせて物的証拠を積み重ねた。1909年11月15日、モレロは自宅でウィリアム・J・フリン率いるUSSS捜査チームに踏み込まれ、逮捕された。1910年までに一家の総勢70人近くが摘発された。 USSSは、一家の紙幣偽造団に半ば強制されて加わっていたカラブリア系印刷屋アントニオ・コミトに照準を絞り、減刑や身の安全と引き換えに証言するよう迫った。コミトはこれに応じ、紙幣偽造活動や組織の内幕を暴露した。1910年2月、コミトの証言が決定打となり、モレロ以下8人が有罪宣告され、監獄送りになった。 後年、USSSのウィリアム・J・フリンが、モレロ一家の紙幣偽造犯罪をまとめて「バレル・ミステリー」(1919年)を著した。
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