USSR-1 Bis
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/07/31 15:13 UTC 版)
「USSR-1」の記事における「USSR-1 Bis」の解説
「オソアヴィアヒム1」の墜落事故の後、軍はUSSR-1の安全性の見直しを求めた。USSR-1のゴンドラは安全に考慮されていたが、非常の場合搭乗員がパラシュートで脱出しなければならないが、オソアヴィアヒム1の事故は、搭乗員が脱出できない高度で発生し、回転するゴンドラによって生じた、加速度も乗員の脱出を妨げたと考えられた。8,000m以上の高度での乗員の安全の確保を目指して、気嚢をすみやかに切り離せるようにして34mの直径のパラシュートで落下速度をさげるように改造され、USSR-1 Bisと改名された。 1935年6月26日に、Christian Zille 、Yury PrilutskyとAlexander Verigoが搭乗した、USSR-1 Bisは5時25分に離陸し、8時までには予定の高度、16,000mに到達した。しばらくその高度にとどまったが、バルブの故障で水素が失われ、突然の降下が始まった。すぐに 15,000 mまで降下し、降下速度は安全な速さを超えた。バラストを落とすことによって降下速度は緩和されたが、再び降下速度が増した。Zille は Verigoと Prilutskyにパラシュート脱出を命じ、それぞれ3,500 mと2,500 mで、脱出した。 Zilleはパラシュートを開くことによるショックで搭載している計器が壊れるのを恐れて、パラシュートを開くかわりにゴンドラ内の不要なものを捨てて降下速度を毎秒3 mまで低下させた。Zilleは着地の前にゴンドラの外へでて、ステップにつかまった。ゴンドラは静かに安全に着地した。乗員たちは英雄として迎えられ、レーニン賞を受賞した。
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