U47 (潜水艦2代)とは? わかりやすく解説

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U47 (潜水艦・2代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/28 06:43 UTC 版)



基本情報
建造所 ドイッチェヴェルフト社
運用者  ドイツ国防軍海軍
艦種 潜水艦
級名 UボートVIIB型
艦歴
起工 1937年2月27日
進水 1938年10月29日
就役 1938年12月17日
その後 1941年3月7日北大西洋ロッコール近海にて行方不明
性能諸元
排水量 水上:753トン
水中:857トン
全長 66.5m
耐圧殻長 48.8m
全幅 6.2m
耐圧殻幅 4.7m
吃水 4.74m
速力 水上:17.9kt
水中:8kt
航続距離 水上:10ktで8,700海里
水中:4ktで90海里
運用深度 220m
燃料 重油:113.5トン
乗員 士官4名と40~56名
兵装 53.3cm魚雷発射管
艦首4門
艦尾1門
魚雷(最大) 14発
TMA 機雷26発
8.8cm機銃1機
2cm C/30対空砲1機

U47はドイツ海軍がかつて運用したUボートVIIB型潜水艦。

艦歴

1938年12月17日に就役し、ギュンター・プリーン指揮の下で第7潜水隊群に所属した[1]。総哨戒出撃数は10回、イギリスの戦艦ロイヤル・オークを含む31隻を撃沈し、8隻に損傷を与えた[2]。U-47は第二次世界大戦で最も成功したUボートの1つとして位置付けられている[3]。1941年3月に北大西洋ロッコール近海にて消息不明となっている。

第1哨戒

1938年12月17日に就役。同日第7潜水隊群に配属され、艦歴全体を通して第7潜水隊群で運用された。U47は1939年9月に、戦争が勃発する前に出航、開戦後直ちに攻撃が可能となるように行動していた。戦闘開始の2週間前、1939年8月19日にキール軍港から最初の任務に向けて出航し、イギリス諸島を一周した後、ビスケー湾に入った。9月3日の宣戦布告後、U47はイギリス艦に対する攻撃を開始するよう命令を受けるが、開戦初日は敵艦との遭遇はなかった。ドイツの潜水艦U30による客船アセニア号撃沈の知らせは、潜水艦議定書を厳守する命令とともに、翌日プリーンに届いた。哨戒中にU-47が最初に遭遇した船は、プリーンが検閲後に解放した中立のギリシャの貨物船だった。さらに2隻の中立船に遭遇したが、プリーンはそれらを停船させることはしなかった。

U47は9月5日の夜明け直後、貨物船ボスニアを発見した。U47は浮上し、C35 88mm砲/L45砲を一発発射して船を止めようとしたが、代わりにボスニアは蒸気を発し、その船名と位置を無線で知らせるとともに警報を発した。その後、U47はすぐに88mm砲を4度発射し、乗組員に船を放棄するよう促した。U47はボスニアの乗組員を潜水艦に乗せ、乗組員の脱出中に転覆した救命ボートの救助を支援した。ノルウェーの船も到着し、生存者全員を乗せた。乗組員の下船後、U47はボスニアに向け魚雷を発射して撃沈した。2,407トンのボスニアは開戦後に沈没したイギリスの船としては2番目となった。

U47がイギリスの貨物船リオカルロ(4,086トン)に遭遇したのは翌日の夜遅くであった。再びプリーンは民間船に対して砲撃を行い停船させることを選択した。リオカルロは停船して乗組員は船を放棄した。乗組員が不在になった後、U47は魚雷によってリオカルロを撃沈した。

9月7日、プリーンはさらに別のイギリスの貨物船ガルタボンに遭遇した。砲撃後、乗組員が下船した後に魚雷で処分しようとしたが、魚雷発射管が故障していたため、砲撃によって鉄鉱石を満載したガルタボンを沈めた。

最初の哨戒を終え、1939年9月15日にキールに帰投。戦果は貨物船3隻、計8,270トンであった。

第2哨戒

U-47によるスカパ・フローの侵入

1939年10月8日、U47は2回目の哨戒任務を開始した。
今回は特別な任務であり、非常に危険な成功率の低い任務であった。目的地はイギリス海軍の主要な泊地であったスカパ・フロー。そこに停泊するイギリスの主力艦隊を攻撃することが任務であった。

出港から6日後の1939年10月14日、イギリス海軍の主要基地スカパ・フロー泊地への侵入に成功。しかし、前日の13日にイギリス海軍の主力は同泊地を出港しており、襲撃の当日は本国艦隊のほとんどは不在であった。しかし、U47はなんとか標的である戦艦ロイヤル・オークを発見し、磁気魚雷G7を発射するも、ロイヤル・オークの錨を切断するのみであった。U47は魚雷を再装填した後、3発の魚雷の一斉射を行い、その内の1発が艦底で爆発した。ロイヤル・オークは甚大な被害を受け、深刻な浸水が発生した。ロイヤル・オークは魚雷の爆発から15分程で沈没し、800人以上の兵士が戦死した。

この攻撃に際し、プリーンはニックネーム"The Bull of Scapa Flow"を名付けられた。その後、鼻を鳴らす雄牛のエンブレムがU47の司令塔に描かれ、それは第7潜水隊群のエンブレムとなった。プリーンはUボートの船員としては初、ドイツ海軍としても2番目となる騎士鉄十字章を授与された。

第3哨戒

ナチス・ドイツ海軍のUボート艦長ギュンター・プリーン
1940年7月2日に沈没したアランドラ・スター

U47は11月16日にキールを出航し、北海へ向かった。イギリス諸島を巡回しビスケー湾とイギリス海峡に向かった後、U47はさらに12月5日にナバソタ、12月6日にノルウェーの汽船ブリッタ、12月7日にタジャンドエンを沈めた。ナバソタが沈没した後、イギリス駆逐艦による爆雷攻撃を受けるが、U47は攻撃を回避して無傷であった。

第4哨戒

U47はヴィルヘルムスハーフェン港を出港し、19日間北海を巡回したが、3月25日にデンマークの蒸気商船ブリッタを撃沈したのみで、3月29日にヴィルヘルムスハーフェンに帰投した。

第5哨戒

1940年4月3日にヴィルヘルムスハーフェンを出航し、再び北海に向かった。4月19日頃、イギリスの戦艦ウォースパイトを狙って魚雷を発射したが、魚雷は命中しなかったか、または不発であった。近くの駆逐艦数隻が爆雷によりU47を沈めようとしたが、U47はかろうじて離脱した。5回目の哨戒では沈没させた船はなかった。

第6哨戒

U47の6回目の哨戒は前回よりもはるかに大きな成果を挙げた。1940年6月3日にキールを離れた後北海に出て、アイルランドの南海岸沖で活動した。U47の他の6隻のUボートとともにウルフパックを展開し、護送船団を攻撃した。8隻の敵船を撃沈した後、7月6日にキールに戻った。

第7哨戒

U47の7回目の哨戒では、イギリス諸島の北を航行し、アイスランドの南にある北大西洋に向かった。30日間で合計6隻の敵船を沈め、1隻を損傷させた。9月25日、U47は当時ドイツの支配下となっていたフランスロリアン港に入った。

第8哨戒

1940年10月14日にロリアンを出航し、4隻の敵船を沈め、さらに2隻に損傷を与えた。

第9哨戒

1940年11月3日に母港のロリアンを出航し、連合軍の護送船団を探して北大西洋に移動した。9回目の哨戒中に、3隻の船に損害を与え、1隻を撃沈した。 U47は12月6日にロリアンに戻った。

第10哨戒

U47は1941年2月20日にロリアンを出航したが、1941年3月7日に行方不明となった。

アイルランド西部にて、イギリス駆逐艦ウォルヴァライン又はヴェリティに沈められたと考えられている。2021年現在まで、U47に何が起こったのかについての公式の記録はないが、乗組員全員が死亡したと推定されている。

戦果一覧

全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

ナチス・ドイツ海軍で活動中、U-47は39隻の商船合計 162,469総登録トンと29,150トンの軍艦1隻を撃沈した。U-47はまた、8隻の商船62,751総登録トンと10,035トンの軍艦1隻に損傷を与えた。[4]

日付[4] 船名[4] 国籍[4] 総トン数[注 1][4] 結果と位置[4]
1939年9月5日 ボスニア[5]  イギリス 2,407 北緯45度29分 西経09度45分 / 北緯45.483度 西経9.750度 / 45.483; -9.750 (Bosnia (ship))で沈没
1939年9月6日 リオ・カルロ  イギリス 4,086 北緯46度30分 西経12度00分 / 北緯46.500度 西経12.000度 / 46.500; -12.000 (Rio Claro (ship))で沈没
1939年9月7日 ガルタボン  イギリス 1,777 北緯47度04分 西経11度32分 / 北緯47.067度 西経11.533度 / 47.067; -11.533 (Gartavon (ship))で沈没
1939年10月14日 ロイヤル・オーク  イギリス海軍 29,150 北緯58度55分 西経02度59分 / 北緯58.917度 西経2.983度 / 58.917; -2.983 (Royal Oak (ship))で沈没
1939年11月28日 ノーフォーク  イギリス海軍 10,035 命中を主張。実際は不発
1939年12月5日 ナバソタ  イギリス 8,795 北緯50度43分 西経10度16分 / 北緯50.717度 西経10.267度 / 50.717; -10.267 (Novasota (ship))で沈没
1939年12月6日 ブリッタ  ノルウェー 6,214 北緯49度19分 西経05度35分 / 北緯49.317度 西経5.583度 / 49.317; -5.583 (Britta (ship))で沈没
1939年12月7日 タジャンドエン  オランダ 8,159 北緯49度09分 西経04度51分 / 北緯49.150度 西経4.850度 / 49.150; -4.850 (Tajandoen (ship))で沈没
1940年3月25日 ブリッタ  デンマーク 1,146 北緯60度00分 西経04度19分 / 北緯60.000度 西経4.317度 / 60.000; -4.317 (Britta (ship))で沈没
1940年6月14日 バルモラルウッド  イギリス 5,834 北緯50度19分 西経10度28分 / 北緯50.317度 西経10.467度 / 50.317; -10.467 (Balmoralwood (ship))で沈没
1940年6月21日 サン・フェルナンド  イギリス 13,056 北緯50度20分 西経10度24分 / 北緯50.333度 西経10.400度 / 50.333; -10.400 (San Fernando (ship))で沈没
1940年6月24日 キャサリン  パナマ 1,885 北緯50度08分 西経14度00分 / 北緯50.133度 西経14.000度 / 50.133; -14.000 (Cathrine (ship))で沈没
1940年6月27日 レンダ  ノルウェー 4,005 北緯50度12分 西経13度18分 / 北緯50.200度 西経13.300度 / 50.200; -13.300 (Lenda (ship))で沈没
1940年6月27日 レティシア  オランダ 2,580 北緯50度11分 西経13度15分 / 北緯50.183度 西経13.250度 / 50.183; -13.250 (Leticia (ship))で沈没
1940年6月29日 エンパイア・トゥカン  イギリス 4,127 北緯49度20分 西経13度52分 / 北緯49.333度 西経13.867度 / 49.333; -13.867 (Empire Toucan (ship))で沈没
1940年6月30日 ゲオルギオス・キリアクデス  ギリシャ 4,201 北緯50度25分 西経14度33分 / 北緯50.417度 西経14.550度 / 50.417; -14.550 (Georgios Kyriakides (ship))で沈没
1940年7月2日 アランドラ・スター  イギリス 15,501 北緯55度20分 西経10度33分 / 北緯55.333度 西経10.550度 / 55.333; -10.550 (Arandora Star (ship))で沈没
1940年9月2日 ヴィル・ド・モン  ベルギー 7,463 北緯58度20分 西経12度00分 / 北緯58.333度 西経12.000度 / 58.333; -12.000 (Ville de Mons (ship))で沈没
1940年9月4日 タイタン  イギリス 9,035 北緯58度14分 西経15度50分 / 北緯58.233度 西経15.833度 / 58.233; -15.833 (Titan (ship))で沈没
1940年9月7日 ネプチューニアン  イギリス 5,155 北緯58度27分 西経17度17分 / 北緯58.450度 西経17.283度 / 58.450; -17.283 (Neptunian (ship))で沈没
1940年9月7日 ホセ・デ・ラリナガ  イギリス 5,303 北緯58度30分 西経16度10分 / 北緯58.500度 西経16.167度 / 58.500; -16.167 (José de Larrinaga (ship))で沈没
1940年9月7日 グロ  ノルウェー 4,211 北緯58度30分 西経16度10分 / 北緯58.500度 西経16.167度 / 58.500; -16.167 (Gro (ship))で沈没
1940年9月9日 ポシドン  ギリシャ 3,840 北緯56度43分 西経09度16分 / 北緯56.717度 西経9.267度 / 56.717; -9.267 (Possidon (ship))で沈没
1940年9月21日 エルバンク  イギリス 5,156 北緯55度20分 西経22度30分 / 北緯55.333度 西経22.500度 / 55.333; -22.500 (Elmbank (ship))で損傷
1940年10月19日 ウガンダ  イギリス 4,966 北緯56度35分 西経17度15分 / 北緯56.583度 西経17.250度 / 56.583; -17.250 (Uganda (ship))で沈没
1940年10月19日 シラク  イギリス 6,023 北緯57度00分 西経16度53分 / 北緯57.000度 西経16.883度 / 57.000; -16.883 (Shirak (ship))で損傷
1940年10月19日 ワンディビー  イギリス 4,947 北緯56度45分 西経17度07分 / 北緯56.750度 西経17.117度 / 56.750; -17.117 (Wandby (ship))で沈没
1940年10月20日 ラ・エスタンシア  イギリス 5,185 北緯57度 西経17度 / 北緯57度 西経17度 / 57; -17 (La Estancia (ship))で沈没
1940年10月20日 ホワイトフォード・ポイント  イギリス 5,026 北緯56度38分 西経16度00分 / 北緯56.633度 西経16.000度 / 56.633; -16.000 (Whitford Point (ship))で沈没
1940年10月20日 アセルモナーク  イギリス 8,995 北緯56度45分 西経15度58分 / 北緯56.750度 西経15.967度 / 56.750; -15.967 (Athelmonarch (ship))で損傷
1940年11月8日 ゴンサロ・ヴェーリョ  ポルトガル 1,595 北緯52度30分 西経17度30分 / 北緯52.500度 西経17.500度 / 52.500; -17.500 (Gonçalo Velho (ship))で損傷
1940年12月2日 ヴィル・ダルロン  ベルギー 7,555 北緯55度00分 西経18度30分 / 北緯55.000度 西経18.500度 / 55.000; -18.500 (Ville d'Arlon (ship))で沈没
1940年12月2日 コンチ  イギリス 8,376 北緯55度40分 西経19度00分 / 北緯55.667度 西経19.000度 / 55.667; -19.000 (Conch (ship))で損傷
1940年12月2日 ダンズリー  イギリス 3,862 北緯54度41分 西経18度41分 / 北緯54.683度 西経18.683度 / 54.683; -18.683 (Dunsley (ship))で損傷
1941年2月26日 カソンゴ  ベルギー 5,254 北緯55度50分 西経14度20分 / 北緯55.833度 西経14.333度 / 55.833; -14.333 (Kasongo (ship))で沈没
1941年2月26日 ダイアラ  イギリス 8,106 北緯55度50分 西経14度00分 / 北緯55.833度 西経14.000度 / 55.833; -14.000 (Diala (ship))で損傷
1941年2月26日 リドボホルム  スウェーデン 3,197 北緯55度32分 西経14度24分 / 北緯55.533度 西経14.400度 / 55.533; -14.400 (Rydboholm (ship))で沈没
1941年2月26日 ボルグランド  ノルウェー 3,636 北緯55度45分 西経14度29分 / 北緯55.750度 西経14.483度 / 55.750; -14.483 (Borgland (ship))で沈没
1941年2月28日 ホルムレア  イギリス 4,223 北緯54度24分 西経17度25分 / 北緯54.400度 西経17.417度 / 54.400; -17.417 (Holmlea (ship))で沈没
1941年3月7日 テリエ・ヴィケン  イギリス 20,638 北緯60度00分 西経12度50分 / 北緯60.000度 西経12.833度 / 60.000; -12.833 (Terje Viken (ship))で損傷

関連作品

映画
  • U47出撃せよ(ハラルト・ラインル監督、1958年、西ドイツ)

脚注

注釈

  1. ^ Merchant ship tonnages are in gross register tons. Military vessels are listed by tons displacement.

出典

  1. ^ Helgason, Guðmundur. “The Type VIIB boat U-47”. German U-boats of WWII - uboat.net. 2010年2月28日閲覧。
  2. ^ Helgason, Guðmundur. “War Patrols by U-47”. U-boat Patrols - uboat.net. 2010年3月23日閲覧。
  3. ^ Helgason, Guðmundur. “The Most Successful U-boats”. German U-boats of WWII - uboat.net. 2010年3月23日閲覧。
  4. ^ a b c d e f Helgason, Guðmundur. “Ships hit by U-47”. German U-boats of WWII - uboat.net. 2010年2月28日閲覧。
  5. ^ SS Bosnia (+1939)”. The Wreck Site. 2010年3月20日閲覧。

関連項目

外部リンク




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