ザンジバル・スルターン国
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- ザンジバル・スルターン国
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سلطنة زنجبار
Usultani wa Zanzibar -
← 1856年 - 1890年 →
(国旗) (国章) - 国歌: ザンジバルの国歌
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1875年のザンジバル・スルターン国の領土 -
公用語 アラビア語、スワヒリ語 宗教 イスラム教スンナ派 首都 ザンジバルシティ
(ストーン・タウン)通貨 ザンジバル・リヤル[1] 時間帯 UTC +3 現在 タンザニア
(ザンジバル革命政府)
ザンジバル・スルターン国(ザンジバル・スルターンこく、スワヒリ語: Usultani wa Zanzibar、アラビア語: سلطنة زنجبار、アラビア語ラテン翻字: Sallttanat Zanjebar)は、19世紀にザンジバルに存在したスルターン国。1856年にマスカット・オマーンの継承争いが発生し、その結果1861年にマスカット・オマーンとの合意により分離された。1890年にイギリスにより保護国化されザンジバル保護国となったが、ザンジバル・ブーサイード朝のスルターンは継承され、ザンジバル王国まで続いた。
歴史
1698年、オマーンヤアーリバ朝の第4代イマームサイフ・ビン・スルターンの在位中、ポルトガル勢力をモンバサで破り、勢力を広げたことにより海外領となった。1832年[2]もしくは1840年に[3]、ブーサイード朝のスルターンサイイド・サイードがウングジャ島のストーン・タウンに宮殿を築き、マスカットから遷都した。サイイド・サイードは、アラブ人のエリート層による支配体制と奴隷を使用したクローブのプランテーションを発展させた[4]。ザンジバルの経済は、サイイド・サイードが入植を進めたインド亜大陸の商人が占める割合が増大した。サイイド・サイードが1856年に没すると、その子マージド・ビン・サイードとスワイニー・ビン・サイードが継承を巡って争い、オマーンとザンジバルは別の国家として分かたれることとなった。ザンジバルはマージド・ビン・サイードが継承したが、オマーンに毎年の貢納が義務づけられた[5]。マージド・ビン・サイードは14年間の在位中に奴隷貿易に注力した。2代目のバルガシュ・ビン・サイードは、奴隷貿易の解消を支援し、大規模な基幹施設の整備を行った[6]。奴隷制廃止の動きは、3代目のハリーファ・ビン・サイードにも引き継がれた[7]。
保護国化
ザンジバル・スルターン国は、ザンジュとして知られるスワヒリ海岸の一部を勢力下に置いていた。交易路は大陸内部まで伸び、コンゴ川河畔のキンドゥまで達していた。しかし、1884年にドイツ植民協会によって現地の族長がドイツの保護下に組み入れられ、バルガシュ・ビン・サイードは直ちに抗議した。同時期にベルリン会議が開催されアフリカ分割が進行、さらにこの地域の植民地化を目指すドイツにより1885年にはドイツ東アフリカ会社が設立されていた。
1886年、ドイツとイギリスはアフリカ大湖沼への拡大について秘密裏に協議を行った。その影響範囲は従前の合意に基づき、イギリスが東アフリカ保護国(ケニア)を、ドイツが後のタンザニアを得るものであった。両国はザンジバルから沿岸部を租借し、交易所と居留地を設立していた。1888年の帝国イギリス東アフリカ会社によるモンバサ統治を皮切りに、数年かけて沿岸部のザンジバル領はヨーロッパの帝国による統治下となった[8]。
同年ドイツ東アフリカ会社は、先に保護下に組み入れた地域を公式に統治することとなった。この決定はアブシリの反乱と呼ばれる現地の蜂起を招いたが、イギリス、ドイツ両国の海上作戦により鎮圧され、ザンジバルのアフリカ大陸への影響力が失われる先駆けとなった。
1890年、イギリスとドイツによってヘルゴランド=ザンジバル条約が調印され、ザンジバルはイギリスの保護国となることが定められた[9]。
関連項目
出典
- ^ “Coins of Zanzibar”. Numista.com. 2012年5月23日閲覧。
- ^ ハロルド・イングラムズ 1967, p. 162
- ^ Kwame Anthony Appiah; Henry Louis Gates, Jr (1999-10-27). Africana: The Encyclopedia of the African and African American Experience. Civitas Books. p. 2045. ISBN 9780465000715
- ^ ハロルド・イングラムズ 1967, p. 163
- ^ ハロルド・イングラムズ 1967, pp. 163–164
- ^ Michler 2007, p. 37
- ^ ハロルド・イングラムズ 1967, p. 172
- ^ British East Africa, by Grant Sinclair
- ^ ハロルド・イングラムズ 1967, pp. 172–173
参考文献
- ハロルド・イングラムズ (1967-10-13). Zanzibar: Its History and Its People. Psychology Press. ISBN 9780714611020
- Michler, Ian (2007-10). Zanzibar. The Insider's Guide. Struik Publishers. ISBN 9781770074606
外部リンク
- The Official Website of the Zanzibar Royal Family http://www.zanzibarroyalfamily.org
- Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). 1911. .
「Sultanate of Zanzibar」の例文・使い方・用例・文例
- Microsoftがβ版をランチするのは「NetShow streaming server」で動画や音声をオンデマンドで提供する。
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 an admiral of the fleet 海軍元帥.
- 篏入的 r 音 《英音の India office /ndiərfɪs/の /r/の音》.
- =《口語》 These kind of stamps are rare. この種の[こういう]切手は珍しい.
- (英国の)運輸省. the Ministry of Education(, Science and Culture) (日本の)文部省.
- は of の誤植です.
- を off と誤植する.
- あいまい母音 《about, sofa などの /ə/》.
- 副詞的小詞 《on, in, out, over, off など》.
- 迂言的属格 《語尾変化によらず前置詞によって示す属格; たとえば Caesar's の代わりの of Caesar など》.
- çon of garlic [humor]. それにはガーリック[ユーモア]がちょっぴり必要だ.
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 the Speaker of the House of Commons 下院議長.
- 《主に米国で用いられる》 = 《主に英国で用いられる》 the Committee of Ways and Means 歳入委員会.
- 初めて読んだ英文小説は“The Vicar of Wakefield”
- (違法罪―a sin of commission―に対する)怠惰罪
- 『each』、『every』、『either』、『neither』、『none』が分配的、つまり集団の中の1つのものを指すのに対し、『which of the men』の『which』は分離的である
- 『hot off the press(最新情報)』は『hot(最新の)』の拡張感覚を示している
- 『Each made a list of the books that had influenced him』における制限節は、リストに載った本を制限節で定義された特定の本だけに制限する
- 臨床的鬱病を治療するのに用いられる三環系抗鬱薬(商品名ImavateとTofranil)
- 『sunshine-roof』は『sunroof(サンルーフ)』に対する英国の用語である
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