Pyayとは? わかりやすく解説

ピイ

(Pyay から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/21 19:21 UTC 版)

ピイ
ပြည်မြို့

ピイ
位置
ピイ
ピイ (ミャンマー)
ピイ
ピイ (東南アジア)
座標 : 北緯18度49分01秒 東経95度13分05秒 / 北緯18.81694度 東経95.21806度 / 18.81694; 95.21806
行政
ミャンマー
 地方域 バゴー地方域
 市 ピイ
人口
人口 (2014現在)
  市域 251,145人
その他
等時帯 ミャンマー標準時 (UTC+6:30)

ピイピー[1]ピィ[2]とも; Pyay, Py; ビルマ語: ပြည်(မြို့)ALA-LC翻字法: Praññʻ (mrui')、IPA: /pjì mjo̰/ ピー・ミョオ)は、ミャンマー中部バゴー地方域の都市。エーヤワディー川(旧称イラワジ川)に面し、ヤンゴン(旧称ラングーン)の北西260kmに位置する。 [3] シュエサンドーパゴダ英語版ရွှေဆံတော်ဘုရား)の街として知られている。 人口は2014年時点で約25.1万人

旧称はプローム: Prome[1]

歴史

1910年のストランド道

640年、ビルマ人の最初の国家であるスリ・クセトゥラ王国が建国された。首都のスリ・クセトゥラはピイの近くに有った。46km2の都市を城壁が囲む、東南アジア最大の城壁都市だった。エーヤワディー川デルタの発達と、モン人・タイ人の侵攻によって王国は衰退した。 [4]

1057年パガン王朝初代王であるアノーヤターがミャンマー南部を征服し、スリ・クセトゥラ遺跡を破壊した。ピイはピュー人発祥の地と言われている。

1825年第一次英緬戦争プロームの戦いでピイは一度占領された。

1853年第二次英緬戦争によってピイはイギリス領となり、プロームと改名された。

1862年、火事で壊滅し、道路しか残らなかった。

1874年、自治体に昇格した。イギリスはイラワジ小艦隊社を設立し、上ビルマ下ビルマの水上輸送を発展させた。

1942年プロームの戦いによって日本軍が占領した。

1945年5月、イギリス軍が占領した。

画像

脚注

関連項目



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「Pyay」の関連用語

Pyayのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



Pyayのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのピイ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS