MuseからAtlasへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 09:19 UTC 版)
「Atlas (コンピュータ)」の記事における「MuseからAtlasへ」の解説
米国がさらに高速なUNIVAC LARCとIBM STRETCHを開発しているとの情報を得たバーント委員会(旧高速計算機検討委員会)は、軍用技術の民間への転用を検討するイギリス研究開発公社(NDRC)に問題を報告した。18ヶ月間かけて見込みユーザー、フェンティやEMIの技術者チーム、マンチェスター大学やイギリス国防省レーダー研究所の設計チームらと会議を重ねた。 こうした努力があったにもかかわらず、NDRCからの資金は1958年夏の時点では提供されていなかった。キルバーンは話を前進させるため、小型のMuseを製作して様々な設計を実験で試してみることにした。マンチェスター大学はMark 1を時間貸しすることによって得られたお金を基金に貯めており、これを原資にして開発が始まった。このプロジェクトが始まってすぐの1958年10月に、フェンティも開発に参加することを決めた。1959年にNDRCからシステム開発費用として30万ポンドの資金が提供された。これはシステムが成功したら返却する約束だった。マシンの名前はプロジェクトの途中でAtlasに変更された。 詳細設計は1959年末に完成し、コンパイラの開発が進んでいた。しかしスーパーバイザ・オペレーティングシステムの開発はかなり遅れていた。フェランティが新たに採用したデビッド・ハワースがチームに参加してプログラマの人数が2人から6人に増えた。パワフルでエネルギッシュなハワーズらが不眠不休の努力を続けた結果、周辺機器の問題を解決するマルチプログラミング(マルチタスク)機能を搭載した、アセンブリ言語で35,000行のスーパーバイザ(OS)が完成した。
※この「MuseからAtlasへ」の解説は、「Atlas (コンピュータ)」の解説の一部です。
「MuseからAtlasへ」を含む「Atlas (コンピュータ)」の記事については、「Atlas (コンピュータ)」の概要を参照ください。
- MuseからAtlasへのページへのリンク