MNSDとの協力と、1995年クーデター
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「ニジェール民主社会主義党」の記事における「MNSDとの協力と、1995年クーデター」の解説
1994年9月21日、ウスマン大統領は自身の権限の拡大を図り、同年9月28日にイスフは首相を解任された。後任首相にはCDSのスーレイ・アブドゥライが任命されたが、PNDSはAFCの首相候補はイスフ以外にありえないとし、ウスマン大統領の決定に反発、AFCを離脱した。これにより、AFCは議会の多数派を形成できなくなり、ウスマン大統領は厳しい議会運営を強いられることとなった。PNDSは結党以来の反MNSD姿勢を改め、MNSDと新たな野党連合を結成した。だがPNDSの有力幹部だったアジ・キルガムやマズー・イブライムは、この決定に反発し、PNDSを離脱した。 AFCが議会多数派でなくなったことにより、1995年1月に議会選が実施された。PNDSとMNSDの連合は、他の2つの小政党と共にこの選挙で多数派となる議席を獲得し、MNSDのハマ・アマドゥが首相、PNDSのイスフが議会議長に就任した。これ以降、ウスマン大統領とアマドゥ首相のコアビタシオンが成立し、両者は激しく対立、政局は混乱した。その様な中で1996年1月、軍のイブライム・バレ・マイナサラ陸軍参謀長によるクーデターが発生したのである。このクーデターにより、マイナサラを委員長とする軍事政権救国委員会が成立。救国委員会はウスマン大統領、アマドゥ首相を解任、憲法と議会を停止し、イスフの議会議長の職も解いた。
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