MLB審判として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 08:10 UTC 版)
ハバードはフットボール選手を務める傍らで、シーズンオフにはマイナーリーグの審判をつとめていた。1936年にメジャーリーグに昇格、1951年までアメリカンリーグの審判員として活動する。審判員としての彼の大きな功績は、それまでのフットボールのノウハウを生かして、試合の状況に応じた各審判員の位置取りを体系化したことである。それまで判定の位置取りは個々の審判員の経験に任されることが多く、またプレーの場所によって球審や各塁審の判定のどちらに責任があるのかなど不明確なケースがあったという。ハバードの在籍期間中だった1952年に、試合の審判員が3人体制から4人体制に変更された際にこの考え方が適用され、現在の審判員の試合中の位置取りに関する基礎となっている。 1951年、ハバードは猟銃の事故で右目を負傷して審判職を退くことになったが、その後1954年からリーグ審判員の統括責任者となり、1969年まで在職していた。1976年にアメリカ野球殿堂入り。翌年癌のためフロリダ州セントピータースバーグで死去。
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