パデレフスキー【Ignacy Jan Paderewski】
パデレフスキ
ポーランドの作曲家、音楽家、政治家。12歳からワルシャワ音楽研究所(音楽院)に入学し、その後ウィーンに赴き、高名なピアノ教授レシェティツキに師事することができた。20代半ばからピアニストとして世界各地で活躍するが、その間に当事の著名な音楽家たちと親交を結び、経験と人脈を築きあげて、96年にはアメリカ合衆国でパデレフスキ財団を設立するまでになった。
第一次世界大戦が勃発すると、徐々に政治活動も行うようになり、ポーランド国民のための救済基金設立、独立運動などを経て1919年にポーランド首相兼外相に就任した。音楽活動に復帰してからも、若い作曲家支援など社会運動に積極的に関わり、ポーランドが侵攻される事態になると、再び渡米。そこで祖国支援に全力を尽くしていている中、1941年ニューヨークで生涯を閉じた。彼を称えて多くの勲章が授けらた。
イグナツィ・パデレフスキ
(Ignacy Jan Paderewski から転送)
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イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(ポーランド語: Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日 - 1941年6月29日)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家・外交官。高名なピアニストである一方、ポーランドの首相を務めたことで知られる。
- ^ Mistrz i jego nauczyciel.Profesor Gustaw Roguski (1839-1921) – nauczyciel Ignacego Jana Paderewskiego
- ^ http://www.psmkonin.pl/kalendarium.html
- ^ 『影絵 : 大演奏家の生活と芸術』(大田黒元雄著、第一書房、1925年刊)p.65。ただし、ここでは「ピアノをヤノタに就いて習ひました。」とだけ記述されていることもあり、後年の文献の中には娘のナタリア・ヤノータ(1856-1932)との混同が見られる(『クラシック 続・不滅の巨匠たち 忘れえぬ名演奏家96人』 音楽之友社、1994年12月刊「イグナツ・ヤン・パデレフスキー」p.112-113の項目、『Women in World History: Vol.8(Jab-Kyt)』(2000年刊)の「Janotha, Natalia (1856-1932)」p.89の項目など)。同様の記述は『Paderewski and his art』(Henry Theophilus Finck、1895年刊)の「He was twelve years old when he went to Warsaw, where at last he was able to hear good music and to take lessons, Janotha being his teacher on the piano」(p.7-8)など海外の文献にも見られる。なお、パデレフスキはナタリア・ヤノータに「ポーランド舞曲(Danses Polonaises Op.5)」を献呈している。
- ^ Biblioteka Narodowa. “Ignacy Jan Paderewski - biography”. BN. 2012年6月12日閲覧。
- ^ 『パデレフスキ自伝』第2章より。
- ^ *月光の曲 - KINENOTE
- ^ 映画・独裁者でチャップリンがこのメロディーを弾くシーンが有名。
- ^ “出版社詳細”. www.panamusica.com. www.panamusica.com. 2021年4月25日閲覧。
- ^ “www.youtube.com”. www.youtube.com. 2020年2月24日閲覧。
- ^ 『楽聖物語』パデレフスキーの項目より。
- ^ 「老域に入つて衰へず」(『夢乃姿』那珂書店、1941年、p.214-218)
「Ignacy Jan Paderewski」の例文・使い方・用例・文例
- 7はJanuaryseventhと読む
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