第一次カッペル戦争とは? わかりやすく解説

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第一次カッペル戦争

(Erster Kappelerkrieg から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/03 04:31 UTC 版)

第一次カッペル戦争(アレマン語:Erschte Kappelerchrieg、ドイツ語: Erster Kappelerkrieg)は、スイスにおけるカトリック派と宗教改革派の間の争いである。1529年6月8日に宗教改革派の同盟がカトリックに宣戦布告して始まったが、実際の戦闘は行われずに和解した。和解の際に両軍の兵がミルクスープ(de)を共に食したことから「ミルク戦争」の異名や「カッペルのミルクスープ」(de)で知られている。


注釈

  1. ^ 現在もスイスの正式な国号は「Schweizerische Eidgenossenschaft(スイス誓約同盟)」である。
  2. ^ スイス兵は精強で知られており、マキャヴェリは自著『戦術論』(1521年)のなかで、スイスを「ローマの軍事的偉大さ」を唯一伝える存在と評している[4]。スイスは、神聖ローマ帝国の皇帝を出していたハプスブルク家にとっては家系の発祥の地であり、ハプスブルク家の支配からスイスが離脱するのを軍事力で抑えこもうとしたが、スイス兵の前に敗れて失敗した[5]。さらにスイスは軍事力でミラノ公国をはじめ北イタリア一帯への侵略・略奪を行うほどの実力があった[4]。ただし、名実ともに正式に「独立」となるのは、1648年のウェストファリア条約によってである[6]
  3. ^ フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)はドイツのマルティン・ルターとは生まれた時期が2か月ほどしか変わらず、同世代の人物である。ツヴィングリが行った宗教改革の主張は、様々な点でルターと共通点があったが、ツヴィングリ自身はルターの影響を否定し、すべて自分自身で考えついたことだと述べている。しかし、後世の研究者には、ルターの影響があったのではないかと考える者もいる。両者の主張は、ルターやツヴィングリよりも100年前のヤン・フスの主張とも多くの共通点があり、その影響下にあるとの見方もある。しかし、ルターとツヴィングリは聖餐をめぐる解釈などいくつかの点で意見の相違があり、直接の対話を行っても共闘関係を結ぶことはついに無かった[9]
  4. ^ ツヴィングリは若い頃にイタリア戦争に出兵したスイス傭兵軍に、従軍司祭として加わっている[10]。ここでノヴァラの戦いマリニャーノの戦いドイツ語版を経験した[10]。ノヴァラの戦いは対峙した両軍ともスイス傭兵軍だった。マリニャーノの戦いではスイス傭兵軍が惨敗して多大な犠牲者を出している[11]
  5. ^ このときツヴィングリはカトリックの制約から自由になるためにグロスミュンスター聖堂の説教師職を辞し、チューリッヒ市の参事会の直属の説教師となった。これによりツヴィングリはチューリッヒで自由に説教ができるようになった[10]
  6. ^ ドイツとスイスの国境はボーデン湖を通っている。コンスタンツはその南岸(スイス側)にある都市で、ドイツの飛び地状になっている。
  7. ^ a b スイスの誓約同盟(Eidgenossenschaft)では、誓約同盟に加盟するカントンの承認なしに、加盟者が外部と同盟を結ぶことを禁じている[15]。キリスト教都市同盟のドイツ語名の「Burgrechte」という語は、この規定に抵触することを回避するために選ばれた語だと考えられている[15]。英語訳では誓約同盟は「Confederacy」、キリスト教都市同盟は「Union」の語があてられている。
  8. ^ 復活祭では、40日前から肉食を断つという慣わしがあった。これに反して3月22日にソーセージを食べた者がいて、コンスタンツ司教やチューリッヒ市がその者たちを罰しようとした。しかし、彼らがソーセージを食べた場に同席していたツヴィングリは、聖書では禁止されていないと主張して彼らを弁護し、社会問題へと発展した[7][10]。ツヴィングリはそのために『食事の選択と自由について』を著している[10]
  9. ^ 聖餐は、その解釈をめぐって、キリスト教の中でも古くから問題が繰り返されてきた。コリントの信徒への手紙一(11:23-26[17])などによると、イエス・キリスト最後の晩餐の際に、パンと葡萄酒を「これは私の肉と血である」と言って門弟に食べさせた。キリスト教では、この故事に基いて「聖餐」の儀式が行われてきたが、キリストの言葉をどう解釈するかは様々な議論があった。古い時代にはこれは人肉食の推奨にほかならないと言ってキリスト教への攻撃材料にもなった。カトリック教会は、アリストテレス形而上学を援用し、神の奇跡によってパンの本質はキリストの体へと変化するが、見た目はパンのままであるという実体変化説(化体説)の立場をとった。プロテスタントはこれをバカげた主張だと批判した。そのプロテスタント側の解釈は様々で、聖餐解釈をめぐってプロテスタントは諸派に分かれた。ルター派の共在説、ツヴィングリ派の象徴説がその代表例である[18][19][20]。ルター派とツヴィングリ派は多くの思想的共通点があったものの、この聖餐解釈をめぐる意見の相違を乗り越えることができず、喧嘩別れすることになる[19][20]。聖餐の儀式を行うにあたり、カトリック教会では、一般信徒に対してはパンだけしか与えず、パンと葡萄酒の両方を食するのは聖職者の特権としてきた。宗教改革派はこれを批判し、全ての信者にパンと葡萄酒の両方をあたえる儀式を行うべきと主張した[19]。これは15世紀のフスによる宗教改革の頃から繰り返されてきた争いだった。
  10. ^ ルターやツヴィングリは、教会に飾ってある聖画像は偶像崇拝に繋がるものだと指摘した。民衆はこれを受けて各地の教会を襲い、聖画像を破壊して回るようになった。ルターはこの件については穏当な対処を求め、民衆による暴力での画像破壊を戒め、領邦君主が穏当なやり方で聖画像を撤去するように諭した。ツヴィングリはもっと厳しく、いかなる場所からも聖画像を撤去すべしと説いたが、チューリッヒ市当局は「近日中に正式発表するまで、何人たりとも聖画像を撤去してはならない」と定め、民衆の破壊に任せるのではなく、教会と教会員の合意に基いて撤去するように誘導した[21]
  11. ^ 宗教改革者は、教会組織が様々な理由にかこつけてミサを執り行っているが、それらには聖書に基づく根拠がなく、単にミサと称して信徒かに寄付させて金稼ぎをしているだけだと非難した。
  12. ^ ツヴィングリ自身が妻帯者だった。
  13. ^ コンラート・グレーベルドイツ語版英語版(1498-1526)という人物は、はじめはツヴィングリの門徒だった。しかしツヴィングリの宗教改革が手ぬるいと感じたグレーベルは、より過激なスイス兄弟団ドイツ語版英語版を組織した。彼らによれば、教会は手がつけられないほど腐敗しており、教会を改革するというのは不可能だった。彼らの主張のうち特徴的だったのが洗礼についての考え方である。一般にキリスト教社会では新生児に対して洗礼の儀式を執り行うが、スイス兄弟団は、自発的にキリスト信仰に目覚めているわけでもない新生児に洗礼を行ったところで、自分が何をしているのかもまだ理解できないのであり、意味が無いと主張した。彼らは、自ら信仰意志を表明した者だけが洗礼に値するとして、実際にそうした者たちへあらためて洗礼を施した。しかし当時のヨーロッパではユダヤ教信者を除き、全ての者が赤児の頃に洗礼を受けているのだから、スイス兄弟団がやっている「洗礼」は二度目の洗礼である。このことから彼らには「再洗礼派」という呼称が与えられるようになった。カトリック教会はこの「再洗礼」はドナトゥス派の再来であり異端であると糾弾した[22]。ドナトゥス派というのは4世紀に北アフリカにキリスト教を布教する際に生じた一派である。当地では聖職者が足りず、日常的な業務を補助者が担っていた。在地のドナトゥスがカルタゴ司教となった時に、この慣習を問題視するものが現れた。ドナトゥスは現地の実情を正当化するため、儀式の執行者が高い徳を備えているのであれば聖職者でなくても有効だと主張したが、これは裏を返すと聖職者の資格を持っていてもその聖職者が堕落した人物の場合には儀式が無効であるということになり、混乱をもたらすものとして処断されたのだった[23]。しかし、その後も再洗礼派はしぶとく生き延びて、過激に先鋭化していき、1530年代にミュンスターの反乱に発展した[23]
  14. ^ この3日前、1529年4月19日は「プロテスタント」が成立した日である。この日、帝国自由都市シュパイアーで行われていた帝国会議では、ドイツ諸侯、都市の代表とフェルディナンドらによって信仰問題が話し合われていた。フェルディナンドは両派の議論を打ち切って、宗教改革側を異端として処罰する採択を決議しようとしたが、福音派諸侯はこれに「抗議(プロスタティオ)」して席を立った。以来、宗教改革派は「プロテスタント」と呼ばれるようになった[24][25]
  15. ^ ドイツ語の「Christliche Vereinigung」の日本語訳には、「キリスト教連合[25]」、「キリスト教同盟[15][26]」などがある。本項ではプロテスタントの「キリスト教都市同盟」との区別のため、「キリスト教連合」の訳語に統一する。
  16. ^ ツヴィングリの名目上の立場は従軍牧師であるが、実際には最高司令官だった[15][26]

出典

  1. ^ a b c d Spuren – Horizonte,Lehrmittelverlag des Kantons Zürich, pädagogische hochschule zürich,Urs Bräm,Kappeler Milchsuppe (PDF) 。2016年12月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『A Companion to the Swiss Reformation, 1519-1575』,p86-88
  3. ^ a b 『ドイツ史1』,p325-327「スイス誓約同盟の成立・発展」
  4. ^ a b c d 『ドイツ史1』,p327-329「スイスの対外関係」
  5. ^ ヒストリカルガイド『ドイツ・オーストリア』,p47-48「スイスの独立」
  6. ^ ヒストリカルガイド『ドイツ・オーストリア』,p64-67「ウェストファリア条約」
  7. ^ a b c d e f g h i j k 『皇帝カール五世とその時代』,p91-104「スイスの宗教改革」
  8. ^ 『ドイツ史1』,p467
  9. ^ a b c d e 『はじめての宗教改革』,p103-106「ツヴィングリと改革派宗教改革の起源」
  10. ^ a b c d e 『精説スイス史』,p83-87「ツヴィングリの改革」
  11. ^ 『精説スイス史』,p79-82「スイスのイタリア進出、挫折す」
  12. ^ a b c d 『ドイツ史1』,p442-446「諸都市における宗教改革」
  13. ^ a b c d e f g h 『皇帝カール五世とその時代』,p100-101「シュタムハイム事件」
  14. ^ Historischen Lexikon,Ittingersturm (PDF) 。2016年12月16日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『皇帝カール五世とその時代』,p199-200「第一次カッペル戦争」
  16. ^ a b c d e f g 『ドイツ史1』,p456-457「「キリスト教都市同盟」の成立」
  17. ^ 『聖書 新共同訳』,p(新)314-315「主の晩餐の制定」
  18. ^ 『はじめての宗教改革』,p116-122「これは私のからだである」
  19. ^ a b c 『ドイツ史1』,p459-460「聖餐論争とマールブルク宗教会議」
  20. ^ a b 『皇帝カール五世とその時代』,p202-204「ルターの聖餐観」「ツヴィングリの聖餐観」「両者の統一成らず」
  21. ^ 『ドイツ史1』,p448-449「聖画破壊運動」
  22. ^ 『はじめての宗教改革』,p107-113「再洗礼派」
  23. ^ a b 『中世の異端者たち』,p7-9「ドナートゥス派」
  24. ^ 『皇帝カール五世とその時代』,p189-193「プロテスタントの成立 ―第二次シュパイヤー帝国議会」
  25. ^ a b c d 『ドイツ史1』,p457-459「第二回シュパイアー会議」
  26. ^ a b c d e f g h i j k 『精説スイス史』,p99-100「第一次カッペル戦争」
  27. ^ a b c d 『スイス・ベネルクス史』,p72-74
  28. ^ reformierte kirchre,kanton zurich,Kappeler Kriege。2016年12月16日閲覧。
  29. ^ a b c d e f g 『皇帝カール五世とその時代』,p201-205「マールブルク討論」
  30. ^ 『精説スイス史』,p100-101「マールブルク会談」
  31. ^ a b c 『皇帝カール五世とその時代』,p206-215「「アウクスブルク信仰告白」とシュマルカルデン同盟の結成」
  32. ^ a b c d e f 『皇帝カール五世とその時代』,p216-225「第二次カッペル戦争―スイス宗教改革、別路線へと進む」


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