A-100プロジェクトの誕生
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「A-100 (航空機)」の記事における「A-100プロジェクトの誕生」の解説
A-100の開発は、A-50Iがアメリカ合衆国からの圧力により頓挫したことを受けその代替として2000年にベリエフとAFRUSがA-50EIに類似した機体に3基のフェーズドアレイレーダーといったロシア製の無線工学複合体を搭載したものとその輸出型をロシア空軍と中国空軍に技術提案するための準備を行ったことに端を発する。この計画機に基づきロシアは中国より資金調達を受け機体を作成する見込みであった。しかし、システムの開発を担当するベガ(英語版)はこの技術提案に関してリソースの不足を理由にプロジェクトへの参加を拒否し、伝統的な回転式アンテナが最適解であると主張した。潜在的な顧客であった中国はこのタイプのレーダーに満足せず、プログラムの資金調達に疑問を呈した。その後中国は自力でAWACSシステムを開発し、システムが外され保管されていた機体に装備させることを決定した(後のKJ-2000)。これによりロシアは独自に開発する道を選びシステムの開発を行う企業としてアルマーズ・アンテイが選定された。 しかし2002年、開発の遅れからロシア国防省はアルマーズ・アンテイとの契約を終了し、ベガにすべての開発文章を移転することを提案し、2003年に国防省はベガ(下請けとしてチホミーロフNIIP(ロシア語版))との間で開発契約を結んだ。
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