7代(玉ノ海)時代
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「二所ノ関部屋 (1909-2013)」の記事における「7代(玉ノ海)時代」の解説
6代(玉錦)が亡くなった後、1939年(昭和14年)1月、26歳の関脇・玉ノ海が二枚鑑札で7代二所ノ関を襲名して部屋を継承した。 7代は先代の弟子から大関・佐賀ノ花、関脇・神風、玉乃海、小結・琴錦、幕内・大ノ海、幕内・十勝岩、直弟子から関脇・力道山などといった関取を育て上げた。二所ノ関部屋が、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で両国の建物が消失して、1950年(昭和25年)まで杉並区の真盛寺に間借りしていた時期に、7代二所ノ関が、「幕内まで昇進した者には内弟子を採用して分家独立することを奨励する」方針を打ち出したことから、大ノ海(後に花籠部屋を創設)、琴錦(後に佐渡ヶ嶽部屋を創設)、玉乃海(後に片男波部屋を創設)らが分家独立を目指して自分たちの内弟子を抱えて育成した。戦争中は食糧確保のために部屋単独で勤労奉仕を行ったが、これにより7代は戦犯容疑で逮捕された。その際の日本相撲協会の冷遇が要因となり、7代は弟弟子である大関・佐賀ノ花に二所ノ関部屋を譲り、1951年(昭和26年)5月に38歳の若さで廃業した後、同年9月に佐賀ノ花が二枚鑑札で8代二所ノ関を襲名して部屋を継承した。
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