5パーセントの上限
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 08:09 UTC 版)
差し迫った賃金政策の終了に備えていたとき、国際的なインフレが不意に発生し、1978年7月21日には1978年から1982年の間における記録的な水準に到達しようとしていた。このためデニス・ヒーリーは新しい白書の導入を行った。それは、その年の8月1日から昇給を5パーセントとする指針を定める物だった。TUCは7月26日に圧倒的多数でその上限設定を否決し、約束されていた通りの自由な団体交渉への回帰を主張した。しかし、10月7日には首相のジェームズ・キャラハンが予想外な宣告を行った。それは総選挙を秋には行うつもりはなく、春の選挙に備えて経済が改善された状態にしておくために冬の間給与の制限を続けるという内容であった。賃金の制限は公的には「第四段階」と位置づけられたが、大抵は「5%の制限」と言い表された。政府は法的な要請として5パーセントの制限を行わなかったが、その制限を破った者は民間であれ、政府の契約者であれ、罰則[要説明]を科すことが決定された。
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