4thアルバム『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』、そして解散
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「ザ・スミス」の記事における「4thアルバム『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』、そして解散」の解説
1987年は順調に始まった。シングル「ショップリフターズ」は年頭にリリースされ、子供たちに万引きを奨励するかのような歌詞に反発もあったものの、UKチャート12位に達した。 続いてバンド2枚目のコンピレーション・アルバム、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』がリリースされ、アルバムチャートで2位を記録した。 さらにザ・スミス2度目で最後の、チャート10位以内に入ったシングル「シーラ・テイク・ア・バウ」が続く。イギリス国外向けのコンピレーションアルバムとして、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』とほとんど同じ内容にシングル「シーラ・テイク・ア・バウ」とアメリカ未発売の『ハットフル・オブ・ホロウ』からの数曲を加えた『ラウダー・ザン・ボム』も発売された。 セールス的には好調が続いたが、メンバーの考え方の違い、特にモリッシーとマーの間の緊張が高まっていたことによってバンドは分裂の危機にあった。1987年8月、NME誌に掲載された「分裂に向かうスミス」(Smiths to Split)と題する記事をきっかけに、ついにマーがバンドを去ることが発表された。マーは当時この記事を、事実とは異なり、モリッシーの情報提供によるものと疑っていた。 マーの代わりのギタリストを募集するオーディションが行われ、アズテック・カメラのロディ・フレイムが加わるのではないかという憶測も当時はあったが、オーディションは成果なく終わった。9月には4枚目のアルバム『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』が発売されたが、このアルバム発売前にバンドは解散した。 『ストレンジウェイズ、ヒア・ウイ・カム』はイギリスでチャート2位を獲得したが、アメリカでは小規模な成功にとどまった。しかし「ガールフレンド・イン・ア・コーマ」の悪名高いプロモーションビデオ(長さわずか30秒)はMTVアメリカでローテーションされる成果を上げた。 このアルバムからはいくつかの曲が、初期のライブ、ラジオセッション、デモトラックなどをB面に組み合わされてリリースされた。翌1988年のライブ・アルバム『ランク』は、バンド解散後にもかかわらずUKチャート2位を記録した。
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