1908年冬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:40 UTC 版)
遠征隊の小屋はプレファブ造りで、大きさは33フィート (10 m) x 19フィート (5.8 m)、2月の末には住めるようになった。主に2人用の個室が連なり、キッチン、暗室、倉庫と実験スペースがあった。ポニーは小屋の最も覆いの深い側に造られた馬房に入れられ、犬小屋は玄関の近くに置かれた。シャクルトンの包括的なリーダーシップのスタイルはスコットのものと対照的であり、すなわち甲板の上下の境目が無く、全ての者が共に生活し、共に働き、共に食事した。士気は高く、地質学者助手のフィリップ・ブロックルハーストが記録しているように、シャクルトンは「遠征隊の隊員それぞれを価値あるものとして扱う能力があった」 冬の闇に閉ざされた数か月間、ジョイスとワイルドが遠征隊の本『オーロラ・オーストラリス』を30部印刷し、梱包材を使って製本された。しかし冬の間の最も重要な仕事は次のシーズンの主要な旅に備えることであり、南極点と南磁極の双方を目指すことになった。シャクルトンは基地をマクマード・サウンドに置くことで、南磁極も再度目標に据え直していた。シャクルトン自身は南極点行きを率いることにした。しかし冬の間にポニーの4頭が死に、厳しい挫折を味わった。ポニーは塩分を含む火山性の砂を食べたのが主な死因だった。
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