1個師団が失われ、2個大隊ができた
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:03 UTC 版)
「第二次ウィンチェスターの戦い」の記事における「1個師団が失われ、2個大隊ができた」の解説
ミルロイとその参謀、騎兵隊および他の小さな部隊を併せて約1,200名がハーパーズ・フェリーまで逃れた。さらに戦闘から数日のうちに、「2,700名以上がペンシルベニア州ブラッディランに現れた。」ミルロイの部隊は存在しなくなり、第8軍団第2師団の散開した残兵は中部方面軍に吸収され、ミルロイは拘束された。南軍は物資を補給し飼料を手に入れることを望んでいただけだったが、ウィンチェスターを簡単に手に入れることで、28門の大砲(ウィンチェスターで23門、マーティンスバーグで5門)と300頭の馬を含み、十分な量の大砲や馬を捕獲したので、歩兵と騎兵の1個大隊の装備ができた。さらに、南軍はウィンチェスターでかなりの稜の食料、衣類、小火器と弾薬および医療品を手に入れた。 北軍ではこの戦闘の後で査問会議が開かれ、エイブラハム・リンカーン大統領とハレック総司令官は、「ウィンチェスターを明け渡せ」という命令に誰が従わなかったかを知ろうとした。リンカーンはミルロイに宛てて次のように書き送った。 ミルロイ少将私は貴方の勇気と我が軍に対する献身を疑ったことはない。...しかし...私は貴方の上官に対する非難やその上官達が貴方に与えた任務を果たすことに対する軋轢を含まないものをいかなる時もほとんど見たことがない。貴方がウェストポイントの出身ではなく、貴方が幾つかの手紙で書いているように迫害されているという概念を貴方は常に掻き立ててきた。将軍、これが貴方の割ってきた岩であることを恐れる。.. — エイブラハム・リンカーン、1863年6月29日 査問の性格は、当初のウィンチェスターを明け渡せという命令に誰が従わなかったかという調査から、ウィンチェスターからの撤退の顛末とその性格を見付けることに変わった。ミルロイは無罪となり、ウィンチェスターでのその輝かしい防御行動がゲティスバーグの戦いのタイミングを決めることに働き、この方面作戦全体で北軍の勝利を呼んだと主張した。これにも拘わらずハレックはミルロイに指揮官職を与えないことに拘った。
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