龍田寮事件の問題解決に寄与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 07:14 UTC 版)
「小崎東紅」の記事における「龍田寮事件の問題解決に寄与」の解説
1954年5月、花園小学校校長から突然黒髪小学校校長へ発令となった。父母が菊池恵楓園の患者である、非感染児を龍田寮から一般の小学校に通学させることが問題となった。赴任した理由は、前任者の校長が児童の保護者からの突き上げにあい、心身ともに疲労し、病気入院したためである。赴任した小崎は校長室も校門も賛成派・反対派に不法占拠される状況の中で校務を遂行した。反発した保護者らが「らい病の子どもと一緒に勉強しなくてすむよう休学しよう」との呼びかけで始まった「第二黒髪小学校」と称する寺子屋教室開設やマイク合戦とエスカレートした。やがて龍田寮事件は、参議院でも検討会が開かれたが、その後に収束した。その後城東小学校の校長になったが、放火事件があり、また、白川小学校校長時代にはガラス窓落下事件もあった。1966年退職。 「龍田寮事件」も参照
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