鳥島への漂流と無人島生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 08:55 UTC 版)
「野村長平」の記事における「鳥島への漂流と無人島生活」の解説
天明5年(1785年)1月30日、土佐藩赤岡村(現在の高知県香南市赤岡町)から田野(現在の高知県田野町)へ300石船(松屋儀七所有、長平が船頭)で御蔵米を運搬した帰路に、船は土佐沖で嵐(冬の大西風、シラ)に遭遇し、舵・帆柱を失って漂船となった。漂船は室戸岬を越えて黒潮に乗ったと推定され、12日後に当時無人島であった伊豆諸島の鳥島に漂着した。 漂着時には長平以外に3名の乗組員がいたが、漂着後2年以内に相次いで死亡し、以後長平は無人島での単独生活を強いられる。鳥島での主な食物はアホウドリの肉と卵、それに少量の海産物であり、後述する大阪船の漂流者と合流する以前は火打石を持たなかったため、それらを生で食した。またアホウドリの肉を乾燥して保存し、これをアホウドリの不在期間(春の巣立ちから秋の営巣まで)の主な栄養源とした。水は雨水を水源とし、これを多数のアホウドリの卵殻などに蓄えた。長平は一日に飲む水の量をアホウドリの卵殻で作った容器1個分と決めていたという。アホウドリの羽を縫い合わせて敷物や衣服を作り、脂肪を灯油に用いた。月を観察して三日月を見た回数から年月を把握した。
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