高農の成立と拡充
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 07:45 UTC 版)
20世紀が始まった時点では、農学関係の独立した高等教育機関は、上記のように官立の札幌農学校と私立の東京農学校しか存在しなかったが、1902年の盛岡高等農林学校設立を皮切りに、1908年の鹿児島高農、さらに1910年-1914年の上田・東京・京都の3高蚕と、官立学校の設立が続いた。これらはいずれも文部省所管であり、1903年制定の専門学校令の適用を受けた。 第一次世界大戦後には高等教育機関拡充の動きの中でさらに鳥取・三重・宇都宮・岐阜・宮崎の官立5高農が1920年-1924年に設立され、1929年には千葉県立園芸学校が文部省に移管され高等園芸学校となった。また帝国大学においては、これ以前から農学部が設置されていた東京帝大に加えて1920年-1923年には九州帝国大学・京都帝国大学でも農学部が新設された。 しかし専門学校の単科大学昇格という点で言えば、官立2校・公立1校が昇格した高等商業学校、官立2校が昇格した高等工業学校と異なり、高農の場合は私立1校(東京高等農学校)が東京農業大学として大学昇格を果たすにとどまった。 この時期、高商・高工に比すると高農の設置要求の声は小さく、そのため文部省は高農よりも高商・高工の設立を優先する政策を採り、農業教育全体においても中等教育以下(実業学校中の甲種・乙種農業学校および農業補習学校、さらに小学校)を重視していた。高農が重視されなかった背景には、当時の産業構造の中で農業の位置が相対的に低下していたことや、高農における教育が研究中心であり実際の農業経営には役立たないという批判が多かったことなどがあげられる。実際、入学者の中では農業学校の卒業者よりも中学校からの者の方が多く、官立8高農の卒業者の中では、千葉高園を例外として、農業に就くものは少数であり、むしろ官公吏として農業の指導奨励にあたるものが多数を占めていた。
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