高屋山永正寺時代とは? わかりやすく解説

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高屋山永正寺時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/21 09:00 UTC 版)

永正寺 (江南市)」の記事における「高屋山永正寺時代」の解説

元禄16年1703年天道祥雲院より観世音像を寄進享保5年1720年普賢菩薩寄進享保12年1727年高屋永正寺山号寺号をうける。 文化2年1805年自火により全山焼失する文政2年1819年葉栗郡笹野妙光寺の法を継ぎ、法地となる。 天保4年1833年総門除き全山火災によって焼失本尊釈迦如来は京で新造され、檀徒長右衛門が京より背負って来たとされる明治24年1891年濃尾地震により一山倒壊明治26年1893年)六世の倍禅慧定が住職となり、本堂庫裡再建大正5年1916年)滝源七氏より鐘楼一寄進。滝常太郎氏より宝蔵寄進昭和7年1932年)七世の月江真澄住職となり、古田三郎氏より茶所一寄進。本堂庫裡始め諸堂修復、寺苑の整備つとめた昭和63年1988年)に現在の水谷大定住職の代になり、山門弘法堂、さとりの大塔建立葬儀改革実践本堂での各種コンサート開催など、地域根差したお寺作りつとめている。 平成29年2017年9月永正八方釈迦如来開眼供養

※この「高屋山永正寺時代」の解説は、「永正寺 (江南市)」の解説の一部です。
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