順慶の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 03:08 UTC 版)
順慶の重臣だった島左近は順慶の死後、跡を継いだ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後に石田三成の家臣となり関ヶ原の戦いに参加した。 天正13年(1585年)閏8月18日、筒井家は順慶亡き後秀吉に伊賀上野に20万石で転封された。徳川方の上杉討伐に動員されたが、上野城が攻められ留守番役の筒井玄播允が戦わず開城して逐電したとの報告で引き返した。そのため、城は取り返したが、関ヶ原の戦いには参戦できず、戦後の加増を受けることはなかった。 その後も定次は豊臣秀頼に年賀の挨拶に参城するなどしたため、家中が徳川派と豊臣派とで分裂し争うこととなった。慶長11年(1606年)12月23日、上野城が火災で罹災し、その復興問題から両派による抗争が再燃した。 慶長13年(1608年)、筒井家重臣の中坊秀祐が家康に主君定次の悪政や鹿狩での倦怠などを訴えたため改易となり、定次と嫡子の順定は陸奥磐城平藩預かりで幽閉となった(筒井騒動)。その後、定次は慶長20年(1615年)3月5日に切腹させられて、筒井家は絶家した。畿内の要衝で豊臣家に対する抑えの伊賀上野に、豊臣との間で曖昧な定次を置く危険性と、定次自体への不信があったとされる。
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