非ラカイン族による支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/23 23:35 UTC 版)
「ラカイン州」の記事における「非ラカイン族による支配」の解説
1785年(あるいは1784年)、内部分裂していた王国がビルマのコンバウン朝に降伏した。マハムニ仏は戦勝品としてビルマ人に奪われた。緩衝国として機能していたアラカンが陥落したことによって、膨張主義のビルマとイギリス東インド会社の領土が直接接触した結果、緊張が将来暴発する舞台を設定してしまった。様々な地政学的諸問題が、以前にビルマに戦勝品として奪われたマハムニ仏を理由に、第一次英緬戦争を引き起こし、今回は神殿の巨大な鐘をイギリス軍が戦勝品として、イギリス東インド会社の第2師団司令官のBhim Singhへその勇気を称えて送った。この彫刻された巨大な鐘は、現在もインドウッタル・プラデーシュ州en:Kanshi Ram Nagar districten:Kasganj近郊のNadrai村にあるヒンズー教神殿(英語版)に備え付けられている。1826年、ヤンダボ条約(英語版)で戦闘は終了し、ビルマはen:Company rule in India(en:Presidencies and provinces of British India。1858年から英領インド)にアラカン(ラカイン州)とテナセリム(タニンダーリ地方域)を割譲することを余儀なくされた。英国はアキャブ(Akyab, 現シットウェ)をアラカンの区都とした。後に、アラカンはイギリス領インド帝国の一地方になり、1937年にビルマがインド帝国から分離され別の直轄植民地である英領ビルマになった時、その一地方として返還された。アラカンはミャウウー王朝期の伝統的な区分に添う3つの地区に行政上の区分がなされていた。
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