雅邦入門と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 15:25 UTC 版)
1896年(明治29年)4月上京、兄の家に身を寄せる。四条派だった父の流儀に近い川端玉章に惹かれるも、兄の友人だった寺崎広業から「金を得るには玉章先生もいいが、何処までもいい画を描いてゆかうと云うのなら雅邦先生に就いた方いい」という助言から橋本雅邦に入門。約3日後には川合玉堂も入門している。この頃、当時の漢学の先生だった富田鴎波の選定で、画号を墨仙に改める。同年9月の日本絵画協会第一回絵画共進会第三部に、「雲龍図」を出品し三等褒状。また暮れ頃より雅邦の許しを得て、川崎千虎に有職故実を、さらに信夫恕軒にも漢学と故実を学ぶ。ところが2年後の1898年(明治31年)上京以来の過度の勉強と酒が原因で右手が神経痛になったため、福島県第二尋常中学(現在の福島県立磐城高等学校)に助教諭心得兼書紀心得として赴任、図画・習字を担当する(月俸25円のち35円)。30代のほとんどを中学教員として過ごすが、その後も東京の展覧会には出品し続けた。
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