陰徳太平記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 16:12 UTC 版)
合戦に際し、尼子軍が兵を2つに分けると、毛利軍も同じく兵を2つに分けて陣を敷いた。尼子軍の当初の作戦は、まず第1陣がわざと敗れることで敵の追撃を誘い、その際にできる敵陣の乱れに生じて第2陣が攻撃を加え勝利を収めるというものであった。 合戦は、尼子軍の将・森脇久仍、本田家吉ら率いる第1陣の1,000の部隊と、毛利軍の将・入江大蔵少輔、入江左衛門進ら率いる第1陣の500の部隊の衝突により始まった。 戦いが始まると第1陣の尼子軍は、当初の作戦どおりわざと敗れて引き、毛利軍の追撃を誘って陣が乱れるように仕向けた。しかしながら毛利軍は、尼子軍の予想に反してその場で備えを固めて動かず、尼子軍を追撃することも陣を乱すこともなかった。 当初の作戦通りに行かないことを知った第2陣に控える山中幸盛、牛尾弾正忠ら率いる2,000の尼子軍の部隊は、第1陣と入れ替わって毛利軍と戦うも、毛利軍によって弓矢を射掛けられ圧倒される。毛利軍に圧倒された尼子軍は、戦いの趨勢を挽回するため第1陣と第2陣を集結させ軍を再編しようとした。 そうしたところ、尼子軍の将・吉田八郎左衛門ら率いる300の部隊が遅れて戦場に到着し、毛利軍に横槍を入れたため、その隙に尼子軍は山中幸盛、立原久綱らによって軍を立て直すことに成功した。さらに第2陣の後陣に控えていた秋上宗信が、1,000の部隊を率いて毛利軍の背後に回り退路を絶とうとしたため、挟撃されそうになった毛利軍は圧倒され壊走状態となった。 軍が壊走する最中、毛利軍の将・杉原盛重は、50騎の兵で尼子軍に追撃を受けながらも7~8町(約7~8km)ばかり引き弓浜の地に着くと、浜の小高い砂山に三つ頭右巴の旗を掲げて、敗残の兵500を集め軍を再編する。そして追撃してきた尼子軍に対し弓鉄砲を射掛けて撃退し、さらに半町(約500m)ばかり尼子軍を追撃すると、取って返して1,500の残兵を集め、部隊を2つに分けて陣を敷くことに成功する。 その後、尼子軍も3,000ばかりの兵を再編して毛利軍に迫ったが、毛利軍の陣立てを見て兵を引いたので、毛利軍も尼子軍への追撃はせずに尾高城へと撤退した。
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