『陰徳太平記』 元禄8年(1695年)成立
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「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」の記事における「『陰徳太平記』 元禄8年(1695年)成立」の解説
幸盛がただ1人で川を渡ってくると、将員もただ1人で川の中に飛び入り進んでいった。両者の距離が30間(約550m~640m)ばかりに迫ると、将員は、大弓に3尺(約90cm)あまりの雁股の矢をつがえて幸盛を射ようとした。しかし、後から幸盛に付いてきた秋上伊織助(秋上宗信)が矢を放ち、将員の持つ弓の弦の真ん中を射切ったため、失敗に終わった。 攻撃を阻止され激怒した将員は、弓矢を投げ捨て小太刀を抜いて幸盛に切りかかり、幸盛も大太刀を抜いて受けたため、太刀打ちによる勝負となった。太刀による戦いは将員の力量が勝り、幸盛は圧倒され追い詰められる。しかし、近くにいた宗信が将員の後ろに回り込み、袈裟懸けに将員を斬りつけると形勢が逆転する。 肩を大きく切られた将員はうつ伏せに倒れ、やがて幸盛に組み伏せられ首を取られてしまう。勝利した幸盛であったが、幸盛もまた将員に膝をしたたかに斬りつけられ深手を負っていた。そのため、幸盛は従者の肩を借りて本陣へ帰る必要があった。 将員が討たれたため、益田の兵300人と見物していた数多の毛利軍は口惜しく思い、一体となって尼子軍を攻撃する。しかし、対する尼子軍は1戦もせずに退却した。幸盛も討たれそうになったが、宗信の計らいにより民家に隠し置かれ、宗信が別人を肩にかけて逃げたため助かることができた。
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