『陰徳太平記』 元禄8年成立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『陰徳太平記』 元禄8年成立の意味・解説 

『陰徳太平記』 元禄8年(1695年)成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 01:51 UTC 版)

山中幸盛・品川将員の一騎討ち」の記事における「『陰徳太平記』 元禄8年1695年成立」の解説

幸盛がただ1人で川を渡ってくると、将員もただ1人で川の中に飛び入り進んでいった。両者の距離が30間(約550m~640m)ばかりに迫ると、将員は、大弓に3尺(約90cm)あまりの雁股の矢をつがえて幸盛を射ようとした。しかし、後から幸盛に付いてきた秋上伊織助(秋上宗信)が矢を放ち、将員の持つ弓の弦の真ん中を射切ったため、失敗終わった攻撃阻止され激怒した将員は、弓矢投げ捨て小太刀抜いて幸盛に切りかかり、幸盛も大太刀抜いて受けたため、太刀打ちによる勝負となった太刀による戦いは将員の力量勝り、幸盛は圧倒され追い詰められる。しかし、近くにいた宗信が将員の後ろ回り込み袈裟懸けに将員を斬りつける形勢逆転する。 肩を大きく切られた将員はうつ伏せ倒れ、やがて幸盛に組み伏せられ首を取られてしまう。勝利した幸盛であったが、幸盛もまた将員に膝をしたたかに斬りつけられ深手負っていた。そのため、幸盛は従者の肩を借りて本陣帰る必要があった。 将員が討たれたため、益田の兵300人と見物していた数多毛利軍口惜し思い、一体となって尼子軍攻撃する。しかし、対す尼子軍は1戦もせずに退却した。幸盛も討たれそうになったが、宗信計らいにより民家隠し置かれ宗信別人を肩にかけて逃げたため助かることができた。

※この「『陰徳太平記』 元禄8年(1695年)成立」の解説は、「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」の解説の一部です。
「『陰徳太平記』 元禄8年(1695年)成立」を含む「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」の記事については、「山中幸盛・品川将員の一騎討ち」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『陰徳太平記』 元禄8年成立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

『陰徳太平記』 元禄8年成立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『陰徳太平記』 元禄8年成立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの山中幸盛・品川将員の一騎討ち (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS