陰徳記の成立とその背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/27 15:13 UTC 版)
香川正矩は『陰徳記』の内容的には毛利氏の事跡をある程度の脚色をもって記しているが、同じ吉川氏の家臣であり、吉川氏に従う以前は同じく安芸武田氏に従っていた熊谷氏をライバル視しており、熊谷信直の娘で吉川元春の妻となった新庄局を「絶世の醜女」として記載している。有名な「元春夫人醜女説」はこの陰徳記から初めて世に出たものであり、その信憑性はかなり低いと言えよう。 また、信直の妹は絶世の美女であったとされ、親戚筋でそこまで差異がある事も不自然である。 一方で、『陰徳太平記』と比較すると、同書に比べると脚色は抑えられており、高麗詞など、『陰徳太平記』には無い資料も収録されている。 『陰徳記』は岩国領主・吉川広正に献上されるも、実際に出版されることはなかった。原本は現存しないが、写本はいくつか伝えられている。平成8年(1996年)、マツノ書店より米原正義の校訂で活字本化された。
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