長禄の変とは? わかりやすく解説

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長禄の変

(長禄の乱 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 04:28 UTC 版)

長禄の変(ちょうろくのへん)は、室町時代長禄元年12月2日1457年12月18日)に赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王忠義王(後南朝の征夷大将軍)とされる兄弟を討って神璽を持ち去った事件。ただし、赤松氏の遺臣らは、この際、一度は神璽の奪取に成功するものの、吉野の郷民に奪い返されてしまい、翌年3月、改めて奪回作戦を決行している。森茂暁は『闇の歴史、後南朝:後醍醐流の抵抗と終焉』でこの長禄元年と2年の事件を合わせて長禄の変と呼んでいる[1]


注釈

  1. ^ 同書では石見太郎の人となりについて「跌宕・傲睨にして傍若無人なり。赤松敗績の後、諸公の門に遊び、年あり」と活写しており、なかなかに想像力をかき立てる人物像となっている。
  2. ^ なお、相国寺鹿苑院内の蔭凉軒主が記した公用日記「蔭凉軒日録」の延徳元年(1489年)12月5日の条に、この日、「南方両宮三十三回忌」が大原陣所で営まれたことが記されている。延徳元年は長禄元年から数えて32年目に当っており、この「南方両宮」が長禄の変で殺害された一宮と二宮と思われる。
  3. ^ これと同じようなことは興福寺大乗院門跡尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』長禄2年4月9日の条にも記されている。

出典

  1. ^ 森 1997, p. 210.
  2. ^ 「堀秀世上月満吉連署注進状」(帝国学士院編『帝室制度史』第5巻)
  3. ^ 「赤松記」(塙保己一編『群書類従』第14輯)
  4. ^ 「碧山日録」(近藤瓶城編『史籍集覧』第25冊)
  5. ^ 「経覚私要鈔」(帝国学士院編『帝室制度史』第5巻)
  6. ^ 森 1997, p. 226.
  7. ^ 渡邊 2012, p. 263.
  8. ^ a b 渡邊 2012, p. 264.
  9. ^ 「蔭凉軒日録」(仏書刊行会編『大日本仏教全書』第133冊)


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