長尾郁子での実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:34 UTC 版)
詳細は「長尾郁子」を参照 1911年(明治44年)頃から御船千鶴子が起こした「千里眼」ブームに乗って自薦他薦の自称超能力者が名乗り出たが、その中で最も福来の関心を引いたのは丸亀市に住んでいた長尾郁子であった。 能力上は当初御船千鶴子に劣ったが、対面して透視を行なえたので詐術の疑惑を受けにくいと判断された。また未現像の写真乾板を送って透視してもらい透視結果を出してもらってから現像するという方法で不正疑惑を避けようとした。数回の実験では的中した。またカブリが発生していたことから、福来は念写の可能性を考え始めた。 山川健次郎が透視と念写の実験に訪れ、福来がオブザーバーとして立ち会うことになった。しかし長尾郁子は少しでも疑われたり邪心があったりすれば精神統一ができないと実験に条件をつけ、学者の反感を買った。不穏な空気の中で行なわれた実験でも長尾郁子側に内密のまま不正開封発見のために入れた鋼鉄線がなくなる、封印が破られているなど不正手段を使ったと思われる状況があったが、不正発見手段は内密に行なわれたことで公表できなかったため成功として報道された。しかし続いて行なわれた実験で山川健次郎側が写真乾板を入れ忘れて念写を依頼する手違いがあり、山川健次郎が謝罪して一時は何とか実験が続行されることになったが、長尾郁子の超能力を疑う学者の中から一方的に「透視と念写は全くの詐欺である」旨報道陣に見解を発表、長尾郁子側は以後の実験を全く拒否し2ヶ月後に風邪で急逝した。
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