錦絵誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 05:08 UTC 版)
錦絵が大流行するきっかけになったのが、1600石取りの旗本・大久保甚四郎(俳名 巨川)と1000石取りの阿部八之進(俳名莎鶏)が、薬種商の小松屋三右衛門(俳名百亀)らと協力して、金に糸目をつけずに画期的な多色摺りの技術を開発し、明和2年(1765年)以降に開催した絵暦交換会である(当時の太陰暦では毎年、30日ある大の月・29日の小の月が変わるため、絵で月の大小を表したものが絵暦)。また、彫師や摺師と協力、木版多色摺りの技術開発、色彩表現の可能性を追求、様々なデザインの絵暦が競って作られ、やがて錦絵の流行に発展していった。春信の「座敷八景」に「巨川工」とあるのはこのアイデアの考案者を表しており、この場合、大久保巨川を指している。また春信の作品が当時の知識人をパトロンとし、彫師、摺師との緊密な協力による制作であることをも示している。大正8年(1919年)に有志によって建てられた碑が台東区谷中の大円寺にある。法名は法性真覚居士。 錦絵の草創期に一世を風靡したため、多数の追随者を出した。春信の門人に鈴木春重(司馬江漢)、鈴木春広(「礒田湖龍斎)、駒井美信、鈴木春次、益信、光信、仲国信など。次代の一筆斎文調、勝川春章、北尾重政、鳥居清長などにも影響を与え、浮世絵黄金期を直接導くものになったといってもよい。
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