野沢白華
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野沢 白華(のざわ はっか、1845年9月15日〈弘化2年8月14日〉- 1904年〈明治37年〉1月29日)は、明治時代の文人画家(南画家)。本名は龍(りゅう)[注釈 1]。白華は号[注釈 2]。
経歴
生い立ち(1845年-1861年/0歳-16歳)
常陸国久慈郡辰ノ口村(現在の茨城県常陸大宮市辰ノ口)で出生[1]。父は平重、母は義(よし)[2]。野沢家は清和源氏の末裔を自称する家で、中世は甲斐武田氏に仕えていたと伝わる[1]。永禄・天正年中(1558年-1592年)に辰ノ口村に移住土着し、以降は常陸佐竹氏に仕えたという[1]。慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国へ移封されると帰農し、近世は代々同村の庄屋を務めた[1]。白華の大叔父にあたる野沢四郎兵衛は「白仙」の号をもつ歌人、俳人であった[1]。祖父の野沢新衛門は漢学者であり、居村に私塾を開いていた[1]。父の野沢平重は幕末の京都で活動した水戸藩士(本圀寺勢)の一人であり、明治以降は居村の戸長に就任した[1]。
文事を尊ぶ百姓家に生まれた白華は、幼時より学問の素養を身につけていく。特に漢詩漢学は祖父の新衛門から厳しく指導を受けていた[1]。安政3年(1856年)、11歳になるとかねて志していた画を学ぶため、生家に近い久慈郡太田町の四条派画人、宇佐美太奇の画塾に入る[1][注釈 3]。文久元年(1861年)、16歳になった白華は江戸行きを決意する[1]。江戸へ発つ前、久慈郡谷河原村の郷士、篠原家の娘麻佐(まさ)17歳と結婚した[1]。
単身江戸へ、春木南溟に入門(1861年-1873年/16歳-28歳)
文久元年(1861)年、16歳の白華は江戸へ出た。目的は当時、江戸に大画塾を構えていた文人画家、春木南溟に入門するためであった。既に郷里で詩道・画道の基礎を習得していた彼は、江戸・南溟画塾の門生となっていよいよ本格的に画を学び始めたわけであるが、画塾での生活はむしろ雑用に追われる毎日であったらしい[1]。特に維新直後は、文明開化の風潮のなかで伝統美術に対する風当たりが強かったことも白華にとっては向かい風となった[3]。また、この時期の白華は羽前や羽後、磐城、上野、下野あるいは京都・大阪と、日本各地を巡遊している[4][5]。
帰郷(1873年-1881年/28歳-36歳)
江戸での修行生活が10年を過ぎた明治6年(1873年)、白華は28歳になっていた。この年、白華は帰郷する[3]。実家に帰った白華は年老いた親の世話をする傍ら、このまま一家の長男として地元にとどまるべきか、それとも画人としての道をさらに進むべきか、たえず悩んでいたといわれる[3]。そのような思いもあってか、白華は翌明治7年(1874年)、一時教師の道を選んでいる[3]。同年3月に開校されたばかりの茨城拡充師範学校(茨城師範学校の前身)に選ばれて入学[6][注釈 4]。3か月の講習を経て修了した後、生家近くの小倉小学校に最初の教師として赴任した[6][7]。しかし、自らの身が官職にあるのを厭う白華はほどなくしてその職を辞し、再び画一筋の生活に入った[7]。
この時期の白華の画活動の特徴は、地元の神社に数多くの絵馬を描いて奉納していることである。一部を挙げれば、『素盞嗚尊八岐大蛇退治図』(明治9年、常陸大宮市小倉、北野五所神社)、『俵藤太百足退治図』(明治13年、常陸大宮市塩原、稲荷神社)、『牛若丸と弁慶図』(明治13年、常陸大宮市富岡、鹿島神社)などがある[8]。それ以外では、農村歌舞伎舞台のひとつ「西塩子の回り舞台」(茨城県指定有形民俗文化財)に使われる襖絵を描いていたとされる[9]。古老の話では、明治初年に白華に制作を依頼したという[10]。
白華は小学校教師の職に就きながら郷里で画道に精進する日々を送っていたが、さらなる画の上達を望む白華の心はそれだけでは満たされなかった。情熱に燃える白華はついに明治14年(1881年)、36歳にして再び郷里を発ち、かねてその名声を聞き及んでいた三河国豊橋の文人画家、渡辺小華の門へ入ることになる[3]。
三河国豊橋へ、渡辺小華に入門(1881年-1882年/36歳-37歳)
このころ(明治10-15年)の渡辺小華は吉田神社の境内に居を構え、自ら盛んに画作する傍ら、多数の門人の育成にもあたっていた。明治14年(1881年)に36歳で小華に入門した白華も、そのうちの一人であった。「白華」という彼の雅号も、このとき小華より賜ったものである[10][注釈 5]。白華は小華の自宅近くに居を構えた[3]。
年が明けて明治15年(1882年)、農商務省主催のもと第一回内国絵画共進会が開催された[11]。白華も師の小華とともに参加し、花卉画および枯木栖禽画の2点を出品した[12]。結果、小華は銅賞を受賞、白華は褒状を授与された[13]。茨城県関係の画人で褒状を受けたのは白華と猪瀬東寧の2人であった[14]。ところで共進会開催中の10月17日、小華は居宅の百花園を引き払って東京・日本橋へ居を移している[11]。一流画家として中央画壇へ進出するためであった。師が東京へ移ったことでひとり豊橋に残された白華は、東京へはついてゆかず、百花園に別れを告げて再び郷里へ戻ることを決める。同年12月、白華は三河を出発、信濃を経て郷里、辰ノ口へ帰った[5]。
帰郷(1882年-1899年/37歳-54歳)
明治17年(1884年)、第二回内国絵画共進会が開催される[14]。白華は花卉画と花鳥画の2点を出品し、再び褒状を授与された[15][16]。茨城県関係の画人で褒状を受けたのは白華と松平雪江の2人であった[17]。第一回、第二回で連続入選を果たした白華は、このころになってようやく中央画壇でも新進画家として認められてきた[18]。白華、39歳のころである[18]。
あえて中央画壇に残らず、郷里に帰ってひたすら画作に励むことを決意した白華だが、同時に数多くの門弟の育成にもあたっていた[18]。白華が第二回内国絵画共進会で入選した明治17年(1884年)、最初の門人となる佐川華谷が入門[19]。同じころ竹内隆節、翌明治18年(1885年)には関田華亭など数人が入門している[19]。明治20年(1887年)から翌明治21年(1888年)にかけては、さらに多くの画人志望者が白華のもとを訪れている[18]。
この時期の作品の一部を挙げれば、『恵比須大黒図』(明治17年)、『昇龍起雲図』(明治24年)、『蓬莱僊境図』(明治25年)、『花鳥図」(明治29年)、『瑞祥歳寒三友図』(明治30年)、『于公高門図』(明治32年)などがある[20]。また、白華はこの時期もいくつかの絵馬を描いている。『朝比奈三郎草摺曳図』(明治27年、常陸大宮市小倉、北野五所神社)や『孔雀図」(明治30年、同市辰ノ口、鹿島神社)などがそれである[8]。
郷里で画の研鑽に励むこと16年、明治31年(1898年)の白華は53歳になっていた。このころ、白華は京都留学を思い立つ[21]。かねてより関西文人画壇との接触を続けていた白華だが、翌明治32年(1899年)正月に郷里を発ち、京都に画活動の拠点を移すことになる[21]。
京都留学(1899年-1900年/54歳-55歳)
入京した白華は三本木に寓居を構えた[21]。京都では、当時関西文人画壇の重鎮として知られた田能村直入の知遇を得たほか、白華と同郷で当時京都に隠棲していた学者、綿引東海(綿引泰)とも面会している[21]。白華在京中の作品と思われる『龍竹図』には「東海道人」による画賛があることから、東海とは親しい交流をしたようである[21]。白華はそのほか、宇治の萬福寺を訪れている[22]。これも在京中の作品と思われる『華図』の画賛に、「入宇治閲黄檗禅寺蔵彼是計千数百各有不堪感賞」(宇治に入りて黄檗禅寺の蔵する彼是千数百を閲して、各々感賞に堪えざるもの有り)との文言があることから、萬福寺をはじめとする宇治の黄檗宗寺院を訪れ、貴重な墨跡を多数閲覧したものと想像される[22]。
京都留学は3年間ほどの予定であったが、京滞在が1年を経過したころの明治33年(1900年)4月、父平重危篤の報を受けた[21]。白華は急遽留学を中断、帰郷することになる[21]。
帰郷、晩年(1900年-1904年/55歳-59歳)
白華の父平重は翌月、明治33年(1900年)5月4日に没した[21]。享年80。2年後の明治35年(1902年)5月4日、白華は父の顕彰碑である「野澤勝之君墓碑」を野沢家墓所内に建立した[21]。白華自ら撰文、執筆を行い、義弟の野沢清之介と連名で建立した[21]。
しかし同じころ、白華の体も少しずつ病魔に蝕まれていた。明治35年(1902年)の夏から秋にかけては持病療養のため、海辺沿いの多賀郡河原子へ転居する[23]。翌明治36年(1903年)の作品である『竹画屏風』(六曲一隻)の第五扇の画賛には、このことが書かれている[23]。すなわち、「余去年自夏経秋転居多賀郡河原子呼吸海辺之空気以養摂宿痾纔見快意」(余、去年夏自り秋を経て多賀郡河原子に転居し、海辺の空気を呼吸して以て宿痾を養摂し、纔に快意を見る)とあるから、海の空気を吸って多少の回復は見せたようであるものの、全快とはならずその年の暮れにはまた生家へ戻っている[23]。
病苦のなかにありながらも、この時期の白華は旺盛に画活動を続けている。最晩年にあたる明治36年(1903年)には前述の『竹画屏風』のほか、『渓山秀麓』、『青緑山水図』、『久慈秋景』などを描いている[24]。去る明治31年(1898年)には自宅屋敷地内に茶室を併設した数寄屋風の画室を新築し、それまでの画室名である「虚心亭」をこの画室に命名、以降悠々自適の画作生活に入っていた[21]。晩年は特に蘇軾の詩を題材とした作品を多く描いたほか、惲寿平や張秋穀の画法なども研究していた[21]。
年が明けた明治37年(1907年)、白華は59歳を迎えた。病状が悪化するなか、1月20日、死期を悟った白華は自ら墓碑の撰文を行う[25]。そしてその9日後、明治37年(1907年)1月29日、門弟たちに囲まれながら病のため死去した[21]。享年59。
白華の没後、養子の野沢豊および門弟の平根華嶂、橋本華涸、佐藤華甫、橘華城、堤華陵らによって白華の墓碑が建てられた[21]。書は水戸市紺屋町の書家、栗橋文園(栗橋保孝)[26]。撰文は前述の通り白華本人である。
脚注
注釈
- ^ 文献によっては白華の本名を「龍久」、「龍次」などとするものがあるが、本人がそのように名乗ったことはない。
- ^ 別号には、白華が書のみ揮毫するときに用いていた「天真道人」がある。
- ^ 宇佐美太奇画塾の同窓生としては小林寒林、梶山太海、田所静年などがいる。
- ^ 茨城拡充師範学校の同窓生としては野口勝一、大津淳一郎、富松正安などがいる。特に野口勝一とは卒業後も親交があった。
- ^ ただし、白華が豊橋へ移住し小華に入門する1年前の明治13年(1880年)には既に、彼が地元の神社(常陸大宮市小倉、北野五所神社)に奉納した絵馬中に「白華山人」の落款が使われている。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』82頁。
- ^ 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』92頁。
- ^ a b c d e f 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』83頁。
- ^ 『内国絵画共進会審査報告』附録19頁。
- ^ a b 『内国絵画共進会出品人略譜』第2回116頁
- ^ a b 『大宮町史』970頁。
- ^ a b 『久慈郡郷土史:附・名誉鑑』143頁。
- ^ a b 『大宮町の絵馬』83頁。
- ^ 『西塩子の回り舞台』20頁。
- ^ a b 『大宮町の絵馬』36頁。
- ^ a b 『田原町史 中巻』1152頁。
- ^ 『明治美術基礎資料集:内国勧業博覧会・内国絵画共進会(第1・2回)編』452頁。
- ^ 『内国絵画共進会会場独案内』7頁。
- ^ a b 『茨城の美術史:明治・大正・昭和』50頁。
- ^ 『明治美術基礎資料集:内国勧業博覧会・内国絵画共進会(第1・2回)編』616頁。
- ^ 『第二回内国絵画共進会褒賞授与人名表』11頁。
- ^ 『茨城の美術史:明治・大正・昭和』51頁。
- ^ a b c d 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』84頁。
- ^ a b 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』93頁。
- ^ 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』90頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』85頁。
- ^ a b 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』47頁。
- ^ a b c 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』41頁。
- ^ 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』91頁。
- ^ 『先人顕彰 野澤白華特別展 久慈川畔で生まれた明治の文人画家』80頁。
- ^ 『古今水戸名家集』69頁。
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