醍醐輝弘とは? わかりやすく解説

醍醐輝弘

読み方だいご てるひろ

公卿。輝久の子、輝良の猶子正親町公明垂加神道を学ぶ。仕えて内大臣に至る。安政6年(1859)歿、69才。

醍醐輝弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/01 07:31 UTC 版)

 
醍醐 輝弘
時代 江戸時代後期
生誕 寛政3年4月27日1791年5月29日
死没 安政6年9月9日1859年10月4日
官位 従一位内大臣
主君 光格天皇仁孝天皇孝明天皇
氏族 醍醐家
父母 父:醍醐輝久、母:蜂須賀幸子
兄弟 輝弘、隆生、信子
正室:蜂須賀宗子
継室:鷹司辰子(鷹司政煕の娘)
忠善忠順
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醍醐 輝弘(だいご てるひろ)は、江戸時代後期の公卿、廷臣。醍醐家第七代並びに第九代当主。

概要

光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)の三帝にわたって仕え、官位は従一位内大臣まで昇った。

生涯

形式上、本家である一条家の猶子となっていたが、寛政5年(1793年)に叙爵、実家の家督を相続する。以降父同様に清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従左近衛権少将左近衛権中将を経て、寛政12年(1800年)に従三位に達して公卿に列する。その後、踏歌節会外弁・権中納言を経て、文化12年(1815年)に権大納言となる。

1819年、長男の忠善が生まれ家督も譲るが、翌年に死亡。再度当主となるが、1830年に次男の忠順が誕生し、翌年これに家督を譲った。

幼少の当主忠順を補佐する一方で、輝弘自身もその後長らく昇格しなかったが、天保11年(1840年)には踏歌節会内弁に就任し、弘化4年(1846年)に内大臣右近衛大将右馬寮御監に任命された。嘉永元年(1848年)すべての官職を辞した。嘉永2年(1849年)に従一位を授与された。1859年に亡くなった。

家族・親族

系譜

醍醐家

醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。

皇室との関係

後陽成天皇男系六世子孫である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

脚注

  1. ^ 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929, p366

関連項目




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