運営と碁界合同まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/11 06:02 UTC 版)
裨聖会は革新的な制度を打ち出した。 段位制を廃して、対局は総互先、先番4目半コミ出しとする。 成績は点数制とする。最高点数の者を棋界の代表選手と認める。 対局時間は一人16時間の持ち時間制とする。 囲碁界で封じ手制度をはじめたのも、裨聖会だといわれる。また、棋譜は報知新聞に掲載された。 裨聖会に参加した4名は当時本因坊秀哉に次ぐ実力の棋士達であり、方円社、本因坊派は危機感を持ち、翌1923年1月に合同して中央棋院を設立する。しかし中央棋院は資金運営などで対立し、再び方円社と中央棋院の名を引き継ぐ本因坊派に分裂して、これに裨聖会を加えた三派鼎立の時代となる。 しかし水面下で三派による合同の動きは進められ、同年9月の関東大震災で各派も打撃を受けたことにより、1924年にこの三派に関西、中京の棋士も加えた日本棋院が設立され、裨聖会も解散となった。 裨聖会の対戦は計24局で、成績は以下。 雁金準一 8勝3敗1ジゴ 瀬越憲作 6勝5敗1ジゴ 鈴木為次郎 6勝6敗 高部道平 3勝9敗 これらの記録は、1924年3月刊行の『裨聖会棋譜』(報知新聞社)として刊行され、細川護立、犬養木堂の題辞が贈られている。他に方円社との交流対局もあった。
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