近時学説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 00:37 UTC 版)
しかしながら近年の研究によると、この和談の実態は従来の理解とは異なり、合意に達しない単なる話し合いの場であったとする見解が極めて有力となっている。その見解によると、幕府が提案した内容については上記のとおりであるが、皇太子と次代の皇太子は決定に至らなかったとされる。また、細部において、和談自体の存在を否定する者、和談は実施されたが次代の皇太子については合意に達しなかったとする者が並立している。また、在位年数を十年とする史料が『梅松論』しか存在しないこと、後宇多上皇が邦良即位後の量仁立太子を認めたとする持明院統の主張が出されたのが後宇多の没後であることから、和談においては皇太子即位しか決まらなかったとする見解もある。 実際には、後宇多の申し入れにより翌文保2年(1318年)、後宇多院政の下、後醍醐が即位する。そして邦良親王、その急逝後は量仁親王が立太子した。結果的には上記提案どおりであったが、両統迭立の約束自体が極めて不確実な状態のまま大覚寺統傍系の後醍醐が即位したことは、後醍醐が父後宇多の遺志に従わずに自分の子孫に皇位を継承させようとしたこともあり、南北朝時代の両統迭立に繋がっていった。
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