赤線条項
【英】: red line clause
20世紀の初頭、メソポタミア(現在のイラク)における石油利権をめぐって、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカの各国が入り乱れて争った。 これは、トルコ石油会社(後のイラク石油会社)の資本構成が二転、三転したことに象徴される。トルコ石油会社は、当初、イギリス、ドイツを中心として設立されたが、第一次世界大戦でドイツが敗戦国となったため、同社の権益を失い、代わりにフランスが参入することとなった。これに対し、アメリカが反発、イギリス、フランスは、1922 年アメリカの参入を認め、以後、1928 年までの 6 年間にわたり協議を重ねた結果、次の資本構成で合意することとなった。 その資本構成は Anglo-Persian Oil(イギリス系)(→BP p.l.c.)、Royal Dutch/Shell Group(英・オランダ系)、CFP(フランス系)(→TOTAL SA)、アメリカ・シンジケートがそれぞれ 23.75 %、グルベンキャンが 5.0 %であった。上記アメリカ・シンジケートは 1922 年の交渉開始時点は 7 社であったが、1928 年には 5 社となり、さらに 1930 年には、Standard Oil(N.J.)、Standard Oil(N.Y.)(→ExxonMobil Corporation)の 2 社となった。この長期間の協議でまとめられた取り決めのなかには、トルコ石油会社に参加している諸会社がエジプトとクウェートを除く旧トルコ領内において単独で石油事業に従事することを禁止する条項があり、その適用地域を明確にするため地図に赤線で示したことから、この取り決めは「赤線条項」または「レッド・ライン・クローズ」と呼ばれている。この条項は、国際石油産業の競争を制限するための取り決めとして、石油産業史上、画期的なものであり、最も著名なものの一つである。 |

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