赤星氏との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 08:26 UTC 版)
当時の肥後北部は、大友氏支配の下で城氏・赤星氏・隈部氏ら旧菊池家臣が統治していたが、その中で親永と赤星親家が主導権を争い、領土問題も絡んで対立が深まった。永禄2年(1559年)には、侵攻してきた赤星親家を合勢川の戦いで破った。敗退した赤星氏が大友氏に援助を求めたため、親永はこれに対抗して肥前国の龍造寺隆信と結んだ。天正6年(1578年)11月に耳川の戦いで大友氏が大敗すると、龍造寺氏の肥後侵攻に加担した。 天正8年(1580年)3月、城親賢らと大友方の阿蘇氏を攻めたが、阿蘇氏重臣の甲斐宗運によって白川亘過瀬において撃退された。7月末、江上家種率いる龍造寺勢と共同で赤星統家(親家の子)の配下の星子中務廉正が拠る長坂城を攻める。赤星統家の叔父・合志親賢による救援軍を破り、8月2日に星子廉正を自刃させて長坂城を攻略、族臣の有働兼元を城番とした。翌9年(1581年)、龍造寺政家が赤星氏の本拠隈府城を攻略すると、同城の支配を任される。 この頃、本拠を永野城から隈府城に移し、また子の隈部親泰を城村城に入れる。所領は明確でないが菊池・山鹿・山本の三郡に及んだ。また菊池旧臣と盛んに婚姻関係を結んで勢力を拡大させた。 天正12年(1584年)3月、沖田畷の戦いで同盟者の龍造寺隆信が戦死する。肥後における龍造寺氏の勢力は急速に衰え、同年8月に島津氏が肥後北部に侵攻してくると、9月には人質を出してこれに降った。
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