負傷・死亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 14:49 UTC 版)
1904年(明治37年)8月10日、最上艦橋で指揮をとっていた殖田は午後6時30頃に、前部艦橋左舷のセマホア信号機に敵弾が命中炸裂、その弾片、破片により負傷した。この時、航海士藤瀬慎二郎中尉が即死、他に負傷したのは艦長伊地知彦次郎、参謀小倉寛一郎少佐、中澤少尉(距離測定器掛)、長谷川清候補生(艦長伝令)ら十数名である。殖田の負傷は右背部失肉創兼肩甲骨骨折、右頬部座創、上顎骨折など数箇所におよび、12日には「西京丸」に移り14日に佐世保海軍病院に入院した。感染症を防ぐ処置などがとられたが、翌日から高熱を発して人事不省に陥る。一時体温は下がったものの衰弱が進み、9月4日午前1時に死去した。
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